第19話 愛溢れる騎手

 不特定多数の誰かに必要とされることが、こんなにも幸福感を運んでくれるなど、マリアは思いもしなかった。


 馬は三頭とも売れた。


 その馬主の中に、マリアは見覚えのある名前を見つける。


〝パウル・フォン・テニエス〟


(テニエスって、あのテニエスさんかしら……)


 確かアンディの婚約者がシルヴィア・フォン・テニエスという名だったが。


 マリアは気になりつつも、馬の事とこの事とは、別の話だと割り切った。




 馬の競りから一週間後、ローヴァインファームに例のパウルがやって来た。


 牧場の片隅に、使用人たちが即席のガーデンパーティを用意する。


 そこに三人で座る。マリアはどこか冷や冷やとパウルを注視していた。


(この方は、私がアンディの前妻だということをご存知なのかしら……)


「いやぁ、参りましたよ」


 パウルは全てを察したように、自ら口を切った。


「妹に指摘されたんです。ローヴァインファームを経営する公爵の妻は、婚約者アンディの前妻なのではないかと」


 テオとマリアは顔を見合わせた。


「ええ、そうなんです」


 仕方なしにマリアは言った。


「先にお伝えするべきだったかしら。申し訳ありません」

「いえいえ、妹はどうか知りませんが、私はそこまで気にしておりません。妹からすると無神経な兄なのかもしれませんが、私の買い物に文句は言わせませんよ」


 マリアはほっと胸をなで下ろす。


 それとこれとは別としてくれると、こちらとしてもやり易い。


「ありがとうございます」

「礼を言われるようなことではありません。ところで──」


 パウルは前のめりになった。


「奥様は騎手をなさらないんですか?」


 マリアは困ったように微笑んだ。テオが答える。


「女が騎手になるのは、なかなかいばらの道だと思うのだ」

「ああ、そうですね。けど何て言ったらいいか……私はそれを含めて、見てみたいと思うんですよ」


 マリアは赤くなった顔を上げる。


「それは、どういう……」

「今、競馬は外国産馬を引き入れるようになり、スピードの追求が至上命題のようになっています。どれもこれも逃げ馬、似た血統。そんなのは人間を走らせるのと何ら変わりない。そうでしょう?」


 テオが腕を組んでうんうんと頷く。


「馬を走らせることの魅力は、本来もっと違う所にあるはずなんです。もともと馬は動物ですから、それを騎手がどう乗りこなすかという部分があったはず。馬をいかに上手く扱うかという、騎手の心や技術を評価する時代が長らくあったわけです。しかし今はそれがなく、癖のない速い馬に人間がとりあえず乗っているだけになってしまっている」


 マリアはパウルの話に聞き入った。


「昨日の馬主たちの反応、見ましたか?あれは、勿論マリアさんが馬を早く走らせたのもあるかもしれませんが、マリアさんの乗り方に〝ドラマ〟を見たからだと思うんです。あの女性騎手には何かある、と。なぜ女が騎手になっているのかとか、妙に上手いぞとか、背景を想像させ、夢を掻き立てます。きっとみなさん、そろそろそういった〝ドラマ〟に飢えていたんですよ。それが、先日の競りで露になった。そう思いませんか、公爵」


 話を向けられたテオは、困ったように腕組みした。


「うーん、まあ……」

「大体がですね、ローヴァイン公爵自身が妻をなぜ馬に乗せたのかという前提から、気になる部分ばかりです。きっと何か理由があったのでしょう?」


 マリアとテオは、互いに困ったように見交わした。


 あなたの妹の婚約者から受けた傷を馬で癒したのがきっかけです、とは、口が裂けても言えない。


 マリアは曖昧に微笑んだ。


「なぜって……馬が好き。ただそれだけですわ」

「本当に?それにしては上手過ぎます。きっと、マリアさんが騎手になったら競馬場の歴史が変わりますよ。女性騎手なんて、今まで聞いたこともないでしょう?」

「はあ……」

「どうせ今の競馬場なんて、社交の場でしかない。馬や騎手はお飾りに追いやられている。あなたが現れれば社交は裏に控え、競馬自体の人気が復活しますよ」


 パウルの熱弁に、マリアはどきどきと胸を鳴らす。


 先週の興奮が、再び心に返って来る。


 テオはじっと妻を眺めると、あご髭をさすりながら何か考え込んだ。


「まあこればっかりは、マリアの情熱次第だ。なあ、マリア」


 マリアは目をこすっていた。


「そ、そうですね……」


 パウルはそんなマリアを、どこか慈愛に満ちた目で眺める。


「私、馬が好きですから、頑張ります」


 そう言いながら、自分に湧き上がって来た情熱を確認するように、マリアは涙を拭って濡れた袖に目を落とした。




 パウルは細かい契約を結び、ローヴァインファームからテニエスの屋敷へと戻って来る。


 次期当主であるパウルは自室に戻り、競馬場での出来事を反芻する。


 ようやく手に入れた念願の馬。


 それを勝たせるには、彼女の協力が必要不可欠だ。


(あんなに楽しそうに馬に乗る騎手、初めて見たもんな)


 あの、世にも珍しい女性騎手マリア。


 見るものを惹きつけてやまない馬への慈愛、それから旺盛な好奇心が、彼女の周囲には渦巻いている。


 その素晴らしい光景を見せつけられ、パウルの心はあることに引っかかりを覚えていた。


 マリアの前夫、アンディのことだ。


(子どもを産めないから離縁……か。分からなくもないけど、もし妹にも子どもが出来なかったら、マリアさんのように離縁されてしまうのかな)


 パウルはどうしても、あの感動的な走りを見せてくれたマリアに肩入れしてしまう。あんなに魅力的な女性を手放すことを、アンディは惜しいと思わなかったのだろうか。


 書斎に籠ってじっと考えていると、シルヴィアがやって来る。


「お兄様」

「ああ……シルヴィアか」

「ねえ、これ見て。アンディからの贈り物よ!」


 シルヴィアは大きな飾り帽子を手にしていた。


「いいね、似合うよ」

「そうだわお兄様。購入した馬はどうでしたか?」


 パウルは上の空になった。


「どうだったっけ……」

「お兄様、しっかりして。じゃあ、ええっと……マリアさんの様子は?」


 パウルは我に返る。


「ああ。今は馬に乗るのに夢中らしい。その内騎手デビューするかもしれないんだって」

「えっ。女性なのに?」

「聞いたところによると、騎手規定に性別の区別はないらしい」

「そう。マリアさんって、怖いもの知らずなのね」


 パウルは頷きながら、気がついた。


 怖いもの知らず。


「そうかもしれないね」


 どことなく、アンディがマリアを切り離した理由が、パウルの中でぼんやりと形になって浮かび上がって来たのだった。

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