第7話 戦う女
次の日の朝。
マリアが目を覚ますと、もうそこにテオの姿はなかった。
そっと扉を開けると、その向こうに侍女が立っている。
「奥様、おはようございます」
侍女が何やら訳知り顔なので、マリアは赤くなった。
「お部屋にお戻りになりますか?」
「……そうします」
マリアは自室に戻ると、侍女に囲まれ着替えを始める。
一方。
テオは食堂に着き、大きなあくびをすると、ひとりごちた。
「あんまり眠れなかった……」
それを聞き、背後で佇むジャンが言う。
「……お疲れですか?」
「いや、疲れるようなことは何もしていない」
静けさがやって来る。
「ところでジャン」
「はい」
「マリアは眠れないのだそうだ」
「それは大変ですね」
「馬に乗るようになれば、眠れるだろうか」
「乗馬服はもう出来上がりましたので、今日から本格的にお乗りになれますよ」
食堂にマリアがやって来て、男たちは口をつぐむ。
マリアはテオを見ると、少し顔を赤くした。
ジャンはそんな二人を交互に眺め、感慨深そうに大きく息を吸う。
テオは顔色一つ変えずに妻に言った。
「マリア、乗馬服が出来たそうだ」
マリアは顔を上げる。
「今日も馬に乗るか?」
マリアは笑顔を見せると、興奮気味に何度か頷いた。
厩では、トビアスが黒毛の馬ロルフにブラシをかけているところだった。
「おや、今日もお二人お揃いで」
そこには、ぴったりとした乗馬服に身を包んだマリアがいる。
「今日も、乗っていいかしら」
「どうぞどうぞ。やっぱり馬に乗ると、なまった体がすっきりしますよ」
マリアは馬を出してもらい、いつものように跨った。
すると、テオも栗毛の馬に乗る。
コースに出ると、テオは早速馬を走らせた。
ぴんと伸びた夫の背筋に、マリアは目を奪われる。
なぜか彼女は昔から、軍人という職業にほのかな憧れがあった。
自分と対極にある存在だからだろうか。戦うという行為が、何だかとても尊いと感じる。
(私は、戦わなかったから──)
そう考えた、その時だった。
ロルフが急に、テオの馬を追いかけ始めたのだ。
マリアは慌てて手綱を繰る。そう言えば、このロルフは競走馬の訓練を受けていたのだ。本能に、前方の馬を追い抜く習性が刻まれているらしい。
マリアは子ども時代を思い出し、背を低くし腰を上げる〝お猿の姿勢〟でロルフにしがみつく。
夫の背中が目前に迫り、マリアはそれを風のようにびゅんと追い抜かして行く。
テオは驚き、静かに己の馬を止めた。
マリアはコースのカーブをぐるりと曲がり、颯爽と走り行く。ぽかんと口を開けたトビアスに風を浴びせ、再びゴールの白線を踏み越えるまで──
マリアがロルフをなだめて止めると、馬に乗ってテオがやって来た。
「マリア!凄いぞ!」
マリアは汗をぬぐいつつ、えへへと笑った。
「ここまで走れるのか。ロルフも……こんなに速い馬だったとは、意外だな」
トビアスも興奮気味にやって来る。
「いや、驚きましたよ。ロルフって今まで、こんなに走れる馬じゃなかったんです」
マリアは労わるように、ロルフの首を撫でてやる。
「テオ様の言う通り、女性を乗せたからですかね?」
トビアスの言葉に、テオは頷いた。
「人間と馬の間にも相性があるからな。まさに馬が合ったのかもしれん」
「考えたら、ロルフは繊細な奴でしたからね。女性の方が荒く乗らないし、軽いし、安心感があるのかも」
テオはじっと何事か考え、マリアの馬と並ぶ。
「マリア。私と競走しないか」
マリアは不敵に笑う。
「いいですよ。どっちが内側を走りますか?」
「マリアが内側でいいだろう。見たところ、ロルフはカーブが得意そうだから」
「確かにそうですね。彼は足の運びがとても丁寧で、もつれませんもの」
二人が白線に並ぶと、トビアスが旗を振る。
二人は一斉に走り出た。
最初はテオの馬がリードする。マリアには、ある予感があった。
ロルフは、先頭の馬を追いかける傾向がある。
一頭で走っている時はかなりのんびりしているのだが、このように複数になると途端にスイッチが入る馬なのだ。
ロルフは前の馬に負けじと走る。マリアは驚くほど上がって行く速度に、感動すら覚えていた。
余りの速度に、思考が追いつかない。
その時。
マリアの体とマリアの思考が、ぶつりと切り離された気がした。
ギルバート家の中でじっとしていたあの十年。
一挙手一投足にまで口を出された、かつてのみじめな自分。
それらがびゅんと遠ざかり、風と共に消え去って行ったような気がしたのだ。
マリアは呆然と、だが正確に手綱を操作する。
これで状況に応じて鞭を打てば、更に加速することだろう。
間近にテオの馬が迫り、気づけばロルフはそれを追い越していた。
そのまま、速度が落ちることはない──
一着。
マリアはテオに勝ったのだ。
「何と……こんなことが」
後方から、テオが速度を落としながら笑顔でやって来る。
「騎士どころじゃないな。騎手にしてもいいぐらいの腕前だ」
トビアスも目を輝かせている。
「これは凄い。女性でここまで馬を乗りこなせる人は、そうそういませんよ」
マリアは晴れ晴れとした笑顔で、ロルフにその場で足踏みをさせた。
「トビアス……この特技は、伸ばせば面白そうだな」
「そうですね。何かの折にデモンストレーションすれば、話題になるかと思います」
テオは腕組みをする。
実のところ、最近はめっきり王から競走馬の依頼がなくなっていたところだったのだ。
「マリア……君は本当に……」
マリアは夫の声に気づかず、にこにことロルフを撫でる。
「テオ。また勝負しましょう。今度は私が外側スタートね」
テオはその好戦的な様子ににんまりする。
「いいぞ。気の済むまでやろう」
「ありがとうございます」
「……礼には及ばん」
そのまま二人は日が暮れるまで乗馬遊びに夢中になった。
だが楽しく汗をかいた次の日──
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