第8話 テオ、倒れる

 次の日。


 テオは朝から寝込んでいた。


 執事や侍女らがひっきりなしに彼の寝室を往復し、屋敷内は騒然としている。


 マリアは応接間の隅で肩を落としていた。


「私のせいで……」


 乗馬をしながら少し汗ばみ肌寒さを感じたりしたが、それがまさかこのような形で彼に襲い掛かって来るとは。


 応接間に医師がやって来る。マリアは慌てて立ち上がった。


「お医者様、夫の病気は……」


 医師は端的に告げる。


「熱が大分高い。どれだけの感染力があり、何が起こるかが分かりませんので、部屋に入る人数は極力少なくして下さい」

「何が起こるか、分からない……?」

「風邪だとは思うのですが、いかんせん歳が歳ですし……経過を見ないと正確な診断は下せません」

「そんな……」


 マリアは青ざめる。


(もし、このままテオが死んでしまったらどうしよう)


 マリアはきゅうっと痛む胸を抑えた。


 と同時に思い出したのは、テオが話してくれた前の妻とのこと。


 最期の顔を見ることなく、別れざるを得なかった二人のこと──


(私はまだ……彼に、きちんと自分の気持ちを伝えていない)


 マリアは立ち上がった。


 この屋敷で暮らす内、彼女に元々備わっていた、思いついたらすぐ行動するという本来の性分が表出し始めていた。


 応接間を出、マリアは急いでテオの寝室へ向かう。


 執事のジャンはマリアに気づくと、さっと扉の前に立った。


「奥様、今は部屋に入ってはなりません。お医者様からもお話があったでしょう」


 マリアは首を横に振った。


「私、テオから言われましたの。彼は死ぬ時に、私に顔を覗き込んで欲しいと」


 ジャンは驚きにぽかんと口を開けた。


「……はい?」

「だから、覗き込んであげないと可哀想です。お願い、彼に会わせて」

「奥様……」


 彼は少し悩んだが、感極まったように鼻をすすると、思い詰めた表情で扉を開けた。


「……どうぞ」


 マリアはばたばたと部屋に駆け込む。ベッドの上のテオは、真っ赤な顔で苦し気にうめいていた。


「……テオ!」


 妻の呼びかけに、テオはつぶっていた目をぱっと開けた。


「マ、マリア……?」

「ごめんなさい。心配になって、来てしまいました」

「馬鹿な……今すぐ部屋を出ろっ。君に感染うつしては困る……」


 テオは掛布団を目深に被り、顔を隠そうとする。


 マリアはそっと身をかがめると、夫の耳に囁いた。


「……あなたが好きです」


 妻のその声に、テオは再び布団から顔を出した。


「何……?」

「聞こえませんでしたか?私、あなたを好きになりました」

「マリア……」

「だから、今死なれては困ります」


 テオはぽかんとしてから、妻の顔を見上げる。


 マリアは頷きながら、何度も目をこすっていた。


「……死なないぞ」


 テオは慌てて言った。


「死んでたまるか。絶対……!」


 彼はマリアの手を握る。


「だから、泣かないでくれ。こんな風邪すぐに治る……すぐに元気になるから」


 マリアはその必死な様子に、泣きながら笑った。


「……はい」

「結婚早々、申し訳ない……気苦労をかける」

「あなたのためにする苦労なら、私、大丈夫です」

「……老いぼれに嬉しいことを言ってくれるじゃないか」


 二人はくすくすと笑い合って、手を離す。


 まるで根拠はないが、マリアは今、テオはすぐに元気になってくれると確信した。


「私、早くあなたと乗馬がしたいです」

「ああ、約束しよう」

「次は、私に勝って下さいね」

「難しいことを言うな、君は……」


 マリアは少し笑うと、気が済んだらしく手を小さく振って夫の寝室を出て行った。


 テオはそれを見送ってから、天井をじっと眺める。


「あなたを好きになりました、か……」


 彼はパチパチと赤くなった目を瞬かせる。


「夢じゃないよな……」


 それから、急激に眠気が襲って来る。


「私も……伝えないとな、マリアに」


 テオは心地よい余韻に浸りながら、死んだように眠りに落ちて行った。

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