50 老獪なスパイマスターの手練手管

「おじさん。ちょっと待っててください」

 ヤンは秘書室のドアを開けて大蔵省の事務次官を呼ぶよう言いつけた。

 先刻の会議で決まった戦時国債の募集についての草案をまとめさせねばならなかった。

 帝国に省庁はいくつかあるが、大臣はいない。

 全て内閣府の所管であり、事務方がいれば事足りるからだ。

 つまり、ヤン一人いればいいのである。

 役人の書いた作文を棒読みするしか能の無い大臣などは必要なかった。

「先ほどの会議で戦時国債の募集が決まりまして。第三軍の進行速度が鈍りましたのでね」

 そう言いながらヤンはウリル少将のいるソファーの向かいにかけた。

 老獪なスパイマスターは、おもむろに口を開いた。

「その第三軍の侵攻のために放っていた情報員が一人、帰ってきました」

 と、ウリル少将は言った。

 なんと!

 心から信じる肉親とも思うウリルの話の、先を促すべくヤンは身を乗り出した。

「機甲部隊の進撃路の背後に展開する第11軍団の宿営地から、今しがた無線で報告を受けました。任務中に敵に捕縛されていたようなのですが、解放されたと。

 彼は『マーキュリー』というコードネームを持つのですが、その名の通り、敵の重大な提案を携えて帰って来たのです。それを閣下にお伝えするために、参りました」

「重大な、提案、ですか」

「はい」

 ウリルも身を乗り出し、二人はテーブルを挟んで額を寄せ合った。

「今、第三軍が対峙しているのはチナの正規軍である『王党軍』ではありません。

 あの一帯を治めるミン一族の私兵です。

 私兵ですが、その武力は正規軍に勝るとも劣らない。むしろ先のミカサ事件でも拿捕行為の主体を担った、チナの豪族の中でも最も武闘派的な、戦闘的な豪族です。

 いくさ慣れもしている。引くところはあっさり引き、粘るところはしつこく、頑強です。第三軍はチナの中でも最も手強い相手と戦うことになってしまったようです」

 ヤンは、頷いた。手強いとみるやすぐに逃げ出すチナ本国軍とは、第三軍の正面の敵は毛色が違うのを感じていたのだ。

「それで、その武闘派一族の重大な提案とは、何なのですか」

 ヤンは疲れてはいたがおじさんの話の先にある魅力的な、あるいは恐ろしい結論を予感しさらに声を落とした。

「その武闘派は、わが帝国と手を結びたがっている、と・・・」

「そのミン一族がチナを裏切るというのですか!」

「『マーキュリー』が囚われていたのはそのミン一族の首領の娘、あのミカサ事件で指揮官を務めた右手の無い女の下だった、と。『マーキュリー』の報告には信憑性があると判断しました」

 そこで少将は一度言葉を切った。彼の言葉が若い宰相の脳裏にイメージを結ぶのを待った。

「今第三軍の機甲部隊はアイホーの線で強力な反撃に遭って苦戦しています。

 アイホーにはミンの配下の最大兵力が投入されている、とのことです。

 架橋作業も妨害され、あと2、3日、下手をするとあと10日ほどはその線に留まらねばならないかもしれない。先にナイグン、アルムに降下した空挺部隊の食料弾薬もあと数日ほどで枯渇します。そこから先の補給は空中投下に頼ることになります」

 ウリル少将はそこで言葉を切った。そして、さらににじり寄った。

「ですが、閣下! 苦しいのは相手も同じようなのです。

 ここに来る前に機甲部隊のフロックス少将と空挺部隊のグールド大佐とは無線で話をしました。

 今ナイグンには一個軍団弱、アルムにはそれを上回る敵兵力がありますが、ナイグンのほうはミン一族の、アルムの方は国王直属の王党軍だということでした。

 ミン一族の提案とは、今のアイホーの線でわが帝国とミン一族が休戦の約定を交わすのならば、アルム攻撃の先鋒に立ち、わが軍のチナ中心への進軍を援ける用意があると・・・」

 ヤンの顔が一時、明るんだ。だがすぐに眉根を寄せた。

「ですが、その見返りは? そのミン一族は代償として何を要求しているのですか?」

「彼らの本領、つまりアイエンからナイグンまでの領地の安堵。そしてミン一族が現在のチナ王国の後継として国体を担うことを認めること」

「帝国にチナを倒させてその漁夫の利を得ようと? しかも本領安堵とはあつかましい・・・」

「交渉ですので、最初は高く売ってきているのでしょう。ですが、問題はそこではないと思うのです」

 ウリル少将は一度言葉を切り、さらに帝国の若き宰相に詰め寄った。

「ヤン閣下。

 以下はあくまでも、このウリル個人の私見です」

 少将は続けた。

「帝国はこれまでの歴史の中で敵の筋書きに添った形でいくさをしたり休戦したり、同盟したり協定を結んだことはありません。あくまで主導権と主体はわが帝国にありました。

 そもそも、今回のいくさの目的はこれまでの再三にわたってきたチナの横暴を膺懲し、チナをしてその政体を改めさせることにあります。

 そのいくさも終わらないうちに敵の一部と内通してこれと協同してチナを倒すなど、このミン一族に返せないほどの借りを作ることになる。

 しかも、仮にミン一族が後継王国を築いたとして、彼らが第二のチナにならぬ保障などどこにもないのです。

 それでは、今前線で戦っている兵たちの命を懸け、多額の国費を費やした甲斐がありません。

 第一、前線で戦っている兵たちがそれをどう思うでしょうか。

 こんなことが出来るなら、何故最初からそうしなかったのだと。

 そう思うのではないでしょうか。

 兵たちの士気は一気に下がってしまうでしょう。

 そのような行き方は帝国の行き方ではないと思いますし、陛下がお許しにならないでしょう」

「おじさん。教えてください。わたしは、どうすれば・・・」

 疲れていたヤンは藁にもすがりたい思いを吐き出した。

 彼がそんな内心を吐くことが出来るのは、この世でただ一人。

 目の前に座っているこの父帝の甥だけなのだ。

「わたしにはそれをあなたに言うことは出来ません。帝国の大方針は、あなたがご自身で考え、陛下に上奏なさる事です。

 ですが、」

 と老獪なスパイの親玉はここで相好を緩めた。

「わたしなら、この機会を利用して一度その右手の無い女と話をします。交渉のための休戦をするのです。

 会談の場所はこちらが指定します。向こうからの提案ですから当然です。

 場所はそう・・・。アイホーとナイグンの間の海岸線の沖、そこに停泊させた第一艦隊のミカサの艦上ではいかがですか? その女が右手を失った場所ですからいささかイヤミではありますが、向こうも来やすく、海上にある帝国海軍の艦上は帝国の領土と同じですからわが帝国の尊厳も侵されません。

 そして停戦中はお互いに停戦監視団を送り、迎え合う。

 それで信義が成り立ちます」

 ウリルはさらに愛すべき甥との距離を詰めた。

「ヤン閣下! 渡りに船、なのです!

 話をしている間に、ナイグンとアルムの空挺部隊に潤沢な補給が出来るではありませんか! 破壊された架設橋製作の時間も、稼げるのです!」

「なるほど!」

 ヤンはようやく腑に落ちて膝を叩いた。

「それに、出来るだけ早期の戦争終結を謀るのは当初からの陛下のご意向ですし、ヤン閣下とわたしの目標でした。

 停戦と交渉の全てにおいて我が帝国の信義と尊厳を守る。

 これなら陛下も御裁可されるでしょう。

 それに、まず話をしなければ相手の真意もわかりません。

 そのチャンスを向こうがくれたのですから、これを利用しない手はありません! 」

 そこまで言うと、ウリル少将は背もたれに身を預けた。

「閣下、それがわが帝国の行き方だと、わたしは思うのです! 」

 さすがだ!

 やはりこの叔父はタダ者ではない。

 ヤンは、この父帝の甥である、第二の父とも仰ぐ人物の、深い洞察と手練手管に舌を巻くとともに、千万の援軍を得た思いがした。

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