30 11月14日 第一落下傘連隊に出撃命令下る

 アイホーの村の人々は、東から続々と流れて来る避難民たちを見た。帝国に接する国境の街アイエンが突如攻めてきた軍隊の支配下にはいったのを風で流れてきた噂と最初の避難民がやって来たのとで知っていた。

 3日前、北東の町アイエンの郊外に突如帝国軍が攻めてきたという。このところ東から西に向かう人並みが増えていた。

 そのなかに、一台の小さな、いまにも車軸が折れそうなオンボロな台車を引いたみすぼらしい身なりの男がいた。

 煤けた服はあちこち擦り切れて泥にまみれ、顔半分を汚れた包帯で覆い、目には割れた色付きの眼鏡をかけ、空を仰いで嘆いていた。男は泣きながら通りをやって来る。

「ヨンファーっ、シャンナーっ!」

 彼の妻だろうか、娘だろうか。男は名を叫び続けながら、通りをトボトボと過ぎていった。

 可愛そうに・・・。

 男を見た誰もが同情を禁じえなかった。きっと戦争が始まって家を焼かれ妻子が巻き添えになって絶望しているのだろう、と。だが、明日は我が身かも知れない。

「帝国軍はここにも攻めて来るらしいぞ!」

 通り過ぎて行く男を見送りつつ、アイホーの人々も逃げ支度のための荷造りを急がねばならなかった。

 町はずれの端のたもとまで来ると、男は橋の下に台車を引きずり込んだ。それを見た避難民の誰もが、あの男は今夜橋の下で眠るのだろうと思った。

 明日は我が身だ。だがせめて、ああはなりなくないものだと皆俯いて橋を渡り西へ向かって足早に歩み去っていった。

 男は陽が落ちるまでそこにいた。だが、月明りが真上に来る前にゴソモソと動き出し、橋の下を丹念に見て回った。

 そして人通りもなくなった深夜、台車の幌をめくって汚いズダ袋の中にある最新式の無線機を起動させ、ボソボソと話しはじめた。

「マーキュリーより雛鷲(ひなわし)」

 相手は彼の通信を待っていたらしく、すぐに出た。

「こちら雛鷲」

「アイホーの橋は戦車の通行は無理だがトラックは可能。これよりナイグンに向かう。オーバー」

「了解、マーキュリー。アウト」

 リヨン中尉は無線機の電源を切ると眼鏡を取って汚れたグラスを拭った。

 美しかった顔はところどころ皺になっていた。帝都の外科医は優秀だった。彼の皮膚を所々縫い合わせ、即席の皺を作ってくれていた。ヘアサロンのアーティストは彼の金髪を黒く染め、額を広く剃り上げてチナの習俗に似せた初老の男を演出してくれていた。

 彼は包帯を取り去り眼鏡と共にその辺りの草むらに投げ捨てた。そして台車から農民の着る黒い筒袖の服と三角の藁帽子を取り出し、手鏡を取り出し月あかりを頼りに顔のメイクを変えた。






 ヤヨイは小さな笛を吹いた。

 ぴっぴぷー、ぴっぴぷー。

 広大な草原に散らばった千名余りの兵たちの群れの中から「マルス小隊」の兵たちが駆け足で集まって来た。

 他の小隊長もそれぞれ異なる笛の音や「フェット(デブ)! フェット! フェット!」とか、「ein Schmied! ein Schmied! 」という小隊名を連呼したりして工夫していた。同じ「学者」大隊の小隊長の一人は、実家が鍛冶屋(Schmied)を営んでいたので「鍛冶屋」小隊という名前を兵たちから贈られたのだった。

 ヤヨイの場合は呼子の笛にした、というわけだ。

「どう? 聞こえやすい?」

 集まって来た小隊の面々にヤヨイは尋ねた。尋ねながら、頭数と顔を確認した。29名全員が揃っていた。

「バッチシっす!」

「よく聞こえました!」

 皆息を切らしながら、兵たちは口々に答えた。

 落下傘で降下し、バラバラになった兵たちを小隊毎に集合させ、すぐに移動させねばならない。そのための訓練だった。

 周りを見ると他の小隊もだいたい集合を終えていた。二三の「迷子」の兵が自分の小隊を探してウロウロしているのが見受けられたが、初めてにしては上出来だと思った。ヤヨイの中に自信が積み重なって来た。

「『学者』大隊、もう一度だ!」

 カーツ大尉の声が草原に響いた。

 実際には同時に降下するのは彼の大隊12個小隊約400名弱になる。これよりはラクなんじゃないかと思うが、念には念を、だった。戦場では何があるか、何が起こるかわからない。

「マルス」小隊はもう一度ヤヨイを中心に半径10メートルほどの輪になり、皆反時計回りにグルグルと回った。

「止まれっ!」

 ヤヨイの号令で兵たちが脚を止めた。他の小隊の輪も同じように止まり、大隊長の号令を待った。

「散開っ!」

 カーツ大尉の号令一下、兵たちはそれぞれ輪の外に向かって百歩駆けた。一度は集まった各小隊がてんでバラバラに入り乱れ、ヤヨイの傍にも隣の小隊の兵たちがやってきた。最初の降下訓練で同じ小屋に寝起きしていた兵の顔もあった。兵たちは皆ヤヨイを見てニコニコ笑っていた。皆、ちょっと接近しすぎじゃないかと思った。

「集合っ!」

 そしてヤヨイは笛を吹いた。

 この訓練にあたって、集合の合図をどんな音色にしようか、どんな吹き方にしようか迷った。それで、大学時代にスブッラの街角でギターを抱えた楽師が弾いていた曲を思い出した。

「これ、何て曲ですか?」

 とても気分がウキウキするいい曲だと思い、楽師の前に置いてあるカンの中にコインを投げ入れながら訊いた。

「モーツァルトの『フィガロの結婚』ですよ、フロイライン」

 その若いギターの楽師に教えてもらったことがあった。それで、モチーフの最初の一小節を「マルス」小隊の集合の音にしたのだ。

 ぴっぴぷー、ぴっぴぷー。

 だが、ヤヨイも曲を奏でていた楽師も、それが18世紀のドイツで作曲された歌劇の、中ほどに挿入されたアリアであることまでは知らなかった。かつてオペラという音楽のジャンルがあったことさえ、帝国のごくわずかの愛好者を除けばほとんどの者が知らなかった。このドイツの作曲家は自分の曲が千年後に軍隊の集合呼子に使われていると知ったなら、どんな顔をするだろうか。

「結婚、かあ・・・」

 訓練中にもかかわらず、ふと、ヤヨイは思った。そう言えば下宿先の奥様が、なにやら大事な話を持ってきていたような・・・。

 ま、いっか。今は任務が全てだ。

 再びマルス小隊の面々がバタバタと集まって来た。

 と、遠くから馬の蹄がギャロップでやって来るのが聞こえた。

「連隊っ! 直ちに駐屯地に帰還せよ!」

 連隊付きの下士官が小隊の間を駆け巡りながらメガホンで怒鳴っていた。


 司令部に集合した指揮官たちを前にグールド大佐は命令を下した。

「明日11月14日の深夜出発する。明日の午前は各自武器軍装パラシュートの点検と休息、午後は機材資材の積み込み終了後1700には就寝のこと。起床は翌0000。トラックにて出撃地点に移動する!」

 近衛第一軍団第一落下傘連隊に、ついに出撃命令が、出た。

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