25 北の野蛮人、帝国に入る
ヤーノフはテレシコフ老の忠告を忠実に守った。
「もしお前が敵に話に向かう時は必ず丸腰で行くことだ。寸鉄も帯びてはならぬ。そして何か白い布切れを持って行け。敵の陣営地が見えたら、それを思い切り振るのだ。それが帝国の軍使の作法らしい」
「軍使の作法・・・」
「それを小半時も続け、それから河を渡るがよい・・・」
もういいだろう。
河の北岸に立っていた彼は白い布を下ろした。そして布よりも白い息を吐いた。しばらくじっと手にした布を見ていたが、やがてそれを毛皮の上に掛けた革帯に挟み込み、良く見えるように胸の上に広げた。
そして、最後に背後を、今超えて来たばかりの北の山の彼方を振り返った。
二人の妻、マリーカにエレナよ。そして六人の子供たち。美しく賢いハナ。勇気あるボリス。俊敏なミハイル。そしてまだ幼いヨハンにイワノフ、そしてカーチャ・・・。
さらばだ・・・。
もし父が帰らぬでも、立派に生きて行け。
これから父はお前たちに幸せを与えるために、行く。
そして、ヤーノフは万感の思いを振り切るように首を返し、南に向かって河を渡った。
岸はすでに凍り始めていた。水面は急な気温の上昇でわずかに水蒸気が立ち込めていた。
冬枯れで水量はくるぶしまでもなかった。毛皮の長靴に凍みこんでくる水が足が千切れそうになるほど、冷たかった。
中ほどまで来ても対岸に動きはなかった。そこでヤーノフはさらに両手を大きく広げた。敵意の無いことを示すためだ。自身三度目となる越境。歩調はゆっくりと、だが一歩一歩確実に、ヤーノフをして帝国の土地へと運んでいった。
対岸に、立った。
そこに、今年の初夏オム族が打ち負かされた時のだろう、帝国の陣地の跡があった。木材同士を頑丈に効率よく組むその防護柵の組み方一つ見ても、それが信じられないほどの短時間で為されたことを伝え聞いたあとでも、帝国のありふれた一兵でさえ、高度な技を持っていることを彼に悟らせた。
是非、この技を会得せねば・・・。
そう思い顔を上げた時、ヤーノフはすでに三人のテッポーを持った帝国兵に取り囲まれていることを知った。
後ろ手の縛めは甘んじて受けた。それは想定の内だった。是が非でもこの一族の族長に会いたい。その一念がヤーノフを全てに耐えさせ、衝き動かしていた。
帝国の兵たちに連れられ森を抜けると、前に来たことがある左右東西に伸びる道に出た。過去二回の南進ともこの道路を超えることさえかなわずに撃退されたのを思い出した。
その道を横断してさらに森に入りしばらく行くと河原にあったものよりもはるかに立派な木組みをした陣地があった。十数名ほどの兵が陣地の上からヤーノフを見下ろしていた。中に女がいた。鉄の帽子の下には若妻のエレナより白い肌に艶やかな金髪、そして碧い目。帝国は女も兵として使っているのに、まず驚いた。
陣地の下でしばし待たされ、やがて馬が連れてこられた。両手が使えないから手綱が取れないなと思っていると帝国の兵が踏み台を用意してくれた。どうせ殺されるかもしれない野蛮人に、大層なことだ。覚悟さえ揺るがねば肝も据わる。いつの間にかヤーノフには大きな余裕が生まれていた。
ここまで来ればジタバタしても仕方がない。全ては自ら望んだことなのだから。
前後を二人ずつ四人の兵に守られ、監視されつつ、ヤーノフは森の中のけものみちを馬の背に揺られた。
陽の光の角度が大きく上に動いたのを感じるほどの時が経った。
急に目の前が開け、先刻見た陣地の数倍はある大きな陣地が目の前に聳えていた。石で壁が築かれている堅固なものだ。この石組も高度な技だと感得した。自然の石ではない。正確に四角に切り、かつ表面を滑らかに磨いてある。それに石と石との隙間がまったく無い。ぜひ、学ばねばならないと思った。石組みの上には遥かに高い櫓が組まれていてそのてっぺんに兵がいた。その兵もやはりヤーノフをじっと見下ろしていた。
その石の壁をぐるりと回った南側に入り口があるのは最初の陣地と同じだった。違ったのは、入り口の坂道の下に十数名ほどの兵が降りて来ていて、皆テッポーを構えてヤーノフを睨んでいたことだった。
そこで馬を下ろされた。徒歩で陣地の中に登った。
陣地は広大なものだった。多くの木の建物があったが、皆茶色に塗られていた。その中でまずヤーノフの目を惹いたのは厩だった。驚くほど多くの馬がいた。三十頭、いや五十頭はいた。皆馬格が大きい。兵も大勢いた。パッと見だが、少なくとも百はいた。
そして見慣れない不思議な四つの丸い輪の付いた箱を見た。あれはいったい何をするものだろうと考えていると、その箱の中に兵の一人が乗り込んで鋭い音と白と黒の煙を吐き、動き出したのだ。その箱は目を丸くして立ち竦むヤーノフの傍を通り過ぎるとスロープを下って陣営地の外に行ってしまった。
テッポーやカミナリの兵器、石組みや多くの馬だけではない。あの不思議な人の乗る箱だけをみても、我らが束になって掛っても帝国には敵わないと思った。
木の小屋の中で一番大きな建物の中に連れて行かれた。
外側もそうだが、木の建物の内部もヤーノフの家などとは比べ物にならぬほど精巧に作られていた。この技もぜひ、と見回していると木の衝立が動き、その奥にある部屋に入れられた。台と椅子があるだけの、外観と同じ茶色に塗られた壁のシンプルな部屋だった。シビル族のどの家の中にもこんな部屋はない。そこは何か人間的なものを拒絶するような、語彙がないから表現しにくい、抽象的な? 何のとっかかりもない、不味乾燥とでもいうような部屋だった。
そこでやっと戒めが解かれた。テッポーの兵が二人、そこに残った。
何も言われなかったので、自然に椅子に掛けた。それに何もすることが無かった。しかも、素っ気ない部屋。
だから二人の兵を観察した。兵たちは夏の服とは違って、着こんでいた。足元も我らと同じ長靴だが毛皮ではなく革靴。
落ち着いてそれらを観察する余裕が生まれ、そこで初めて気が付いた。これほどまでに彼らのテッポーを近くで見たのが初めてだったということを。我らの弓の十倍は飛ぶ弾を撃ちだす筒。不思議に撃たれる恐怖はなかった。もう死ぬことは覚悟のうえで来たのだ。そのせいかもしれない。そのせいか無性にテッポーを手に取ってみたくなったが、明らかにヤバそうなのでガマンした。
と、
ヤーノフと同じ青い肌の背の高い痩せぎすの男が帝国兵と同じ服を着て現れたから驚いた。
ははあ・・・。
これがテレシコフ老が言っていた、帝国の奴隷になったヤツ、か・・・。
背の高い奴隷がヤーノフの真向かいに座った。
「部族名と名を名乗れ。お前は族長か?」
河を渡って初めて、自分たちの言葉を聞いた。
だが、少しムカついた。他の部族の者だとて、他の部族の、仮にも族長を捕まえて「お前」とはなんだ、と。決して許せる態度ではない。密かに腹を立てていると、
「オレはアレクサンデル。以前ウクライノ族にいた者だ。もう一度訊く。部族名と名を名乗れ。お前は族長か?」
アレクサンデルという名の同じ民族の男は変わらない態度で見下して来た。言い返そうと思っていたら、ドアが開いた。ヤーノフよりはるかに背の低い、弱そうな男が入ってきた。アレクサンデルが立って片手を上げて礼のようなものをとっていたから、もしかするとエラいヤツなのかもしれん、と思った。小男はアレクサンデルに何かを訊いていた。これが族長なのだとすれば、帝国も、言うほど恐るるに足らんなと思った。今までの驚きは見掛け倒しこけおどしなのか、と。
その小男がアレクサンデルの隣に、ヤーノフの真向かいに座った。彼は傍らのアレクサンデルに何かを言い、アレクサンデルが、それをヤーノフにわかる言葉に変えた。
「もう一度訊く。部族名と名を名乗れ。そして、国境を越えた理由を言え」
この態度が続くうちは、意地でも言わないつもりだった。
ヤーノフは鷹揚に構え、椅子の背にふんぞり返った。
小男は満面に笑みを湛え、面白そうに青い肌の大男を見つめていた。
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