28 帝国とチナ王国の違い

 今を遡ること3000年前。

 古代ローマの最大版図は、帝都ローマを中心にして東は属州ユダヤ、西はスペイン、南はかつてカルタゴのあった、旧文明末期ではチュニジアと呼ばれた属州アフリカ、北はイギリスのイングランドとスコットランドとを隔てるハドリアンズ・ウォール(ハドリアヌス帝の長城 Hadrian's Wall)からドーバー海峡を渡ってガリアとゲルマニアの間に横たわる線まで。地中海を全て抱え込む、当時の地球上で最大と言われる領土を治めていた。その最盛期の総人口は約3000万余りだったという。


 現在の帝国は面積ではほぼ古代ローマと互角ながら、人口は少なかった。徴兵制は敷いていたが男女とも二十歳からの二年間のみに限定されていた。海軍の下士官以下はその半数が職業軍人だったが、陸軍の場合は約10分の1ほどでしかない。動員できる兵力もおよそ30万がやっと。

 だが、その科学技術によっていにしえのローマとは比べ物にならないほどの強大な軍事力を誇っていた。

 武器を弓と剣だけに頼っていた古代ローマ軍と戦力差を比較すれば、おそらくは10倍以上の開きがあるだろう。すなわち、古代ローマの時代で言えば300百万以上の兵力を持っていることと同じになるのだ。

 対するチナは総人口4000万あまり。だが、当初こそ帝国を凌駕していたその国土面積は、度重なる割譲によって今やかつての3分の2ほどに落ちていた。動員できる兵力は総計50万を超えるが、そのうち国王直轄の正規軍は30万に満たなかった。残りは軍閥の率いる私兵で国王の統制が及ばない。国王もまたそれら軍閥の後ろ盾を失えば立場が危うくなる道理だった。チナ王国の政権基盤は意外にも脆弱なのだ。軍閥たちは互いに疑い深く、常に競い合い、反目し合っていた。

 そして、チナは焦っていた。

 これ以上押されれば、やがては帝国の軍門に下ることになる・・・。

 30年前の無謀な『盾の子供たち』を生んだ侵攻は、その焦りから来たものだったし、あからさまな帝国技術の盗奪も同じ動機から生まれていた。

 話し合い、理解し合い、認め合い、尊重し合う。

 帝国の根底にあるその行き方は、ついぞチナには生まれなかったし、根付かなかった。

 その要因はどこにあったのだろうか。


 ヤヨイが度々「昼寝してても単位がもらえる」ことから好んで聴講していた、バカロレアの「ナガオカ先生の人類史Ⅰ」の講義によれば次のようになる。


 帝国は元々大災厄によって北から逃れてきた欧州人たちが寄り集まって中核となった国だった。どこへ行くという当てもなく、ただとにかく寒波を逃れたい一心で南へ逃げてきた人たちの子孫、それが帝国人だった。

 必然的に遊牧民的な行き方を取らざるを得ず、その点、元は羊飼いの小さな村であった、ロムルスとレムスの二人の兄弟の神話から始まるローマとは、ヒツジやヤギを追っているうちに野生の馬が多く生息するこの地に移り住んだ「羊飼いの子孫」であるところもそのルーツが似ていた。

 帝国人は元々の自分たちが異邦人、エイリアンであり、余所者であることから、他の余所者たちと争うことはあっても気が合えば快く迎え入れる方を選んで生きてきた。

 言わば、土地ではなく人と馬について生きてきたのが帝国人だった。

 元々の欧州人はカソリックかプロテスタントの違いこそあれ大多数がキリスト教徒だったが、他民族を迎え入れるに不都合とあらば宗教さえも捨てた。捨てた、というより、より都合の良い神を「使う」ようになった、というべきだろうか。

 その点、古代ローマ人が信じていた「神々」という概念は、他民族を仲間として迎え入れるに際し、まことに好都合だったといえる。なにしろ、他民族の神も自分たちの神々の中に平気で迎え入れてしまうのだから。

「神様も一人より二人、二人より三人のほうがご利益も多かろう」と。

 宗教や肌の色による「排除」という考え方は、およそ帝国人にとってまったくの「無縁」だったし、その行き方は今もなお続いていた。

 帝都の周辺は奇しくもその昔モンゴルと言われた土地だった。いにしえの大モンゴル帝国の中心地であり、全地球の半分を恐怖に陥れたチンギス・ハーンの騎馬隊の故郷だった。

 命からがら欧州から逃げてきた帝国人たちは、かつての大モンゴルのように急速に膨張して周辺の蛮族の地や人々をも呑み込み、たった1000年で数万倍の人口を抱えることになった。


 一方のチナもまた大災厄に見舞われたが、なんとか父祖伝来の地にしがみつくことが出来た。

 が、それまで彼らを治めてきた強大な政府が倒れ、統治機構が消滅し、その土地ごとに勝手気ままに様々な勢力が林立し、力の支配がはじまった。暗黒の争いの時代の始まりである。

 様々な勢力が合従連衡を繰り返したのち、ある部族が勝ち残り王となったがその王権は短命に終わった。

 王が立つたびに地方から反乱がおこり王が斃され別の王が立つ。そのいくつかの王朝の王たちにとって幸いだったのは、王権を継いだ自分の孫が首を切られるのを見ずに死ねた事ぐらいだった。故に1000年のうちに覚えきれないほどの王国が勃興しては滅んでいった。

 王朝は何度も変わったが、彼らチナ人の根底に流れるこの、「力の支配」の構図だけは変わらなかった。それだけは大災厄前も後も変わらず、彼らは、大災厄から何も学ばなかったことがわかってもなお、自分たちを変えることが出来なかったのだった。

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