第21話

 ひまりと別れて自転車を走らせる。

 公園の通りを抜けて、大通りへ。自宅へ向かう道は折れずにまっすぐ。


 陸橋をくぐると、叔母の勤めている大学病院が見えてくる。建物を横目に、樹木の植えられた広い歩道を急ぐ。

 

 病院を通り過ぎると、急に街並みが寂しくなる。

 車道が徐々に狭くなっていく。タイルで整備された歩道は、細くガタついたコンクリートとなる。車の往来も少なくなる。


 かわりに緑が増えて、空気が柔らかくなっていく。背の高い針葉樹の隙間から差し込んだ夕陽が、横顔を照らす。

 

 開発に取り残されたような雑木林。叔父の店はその一画にある。

 道路に面した入口の前で、私は自転車から降りた。駐車場に車は一台も停まっていなかった。桜の花びらがまばらに散らばっている。その上を、タイヤを転がして裏手に回る。


 裏の砂利道には叔父の車が止まっていた。そのわきに自転車のスタンドを立てる。

 私はかごのカバンを肩にかけ、表の入り口に回り込んだ。低音のきいたロック調の音楽が漏れ聞こえてくる。ドアの上に喫茶オルターナの表札。OPENの札がかけられた扉を押すと、コーヒーの香りが鼻先に押し寄せてくる。


「いらっしゃ……あぁ、おかえり」


 カウンターの中で、叔父の雄二が柔和な笑みを浮かべた。


「すみません、ちょっと遅れました」

「いや、いいよいいよ」


 店内は叔父一人だった。入り口からまっすぐカウンター奥へ。

 更衣室などという上等なものはない。厨房の奥にある縦長の衣装ダンスを開けて、その前でブレザーを脱いで中のハンガーにかける。


 取り出したエプロンをブラウスの上から身に付ける。下はそのまま。前は隠れているし、どうせ誰も気にしない。

 

 その足で共用のトイレへ。手をよく洗って消毒。鏡で少しだけ前髪を整える。

 店内に戻ると、叔父は椅子に座って壁にかかったモニターを眺めていた。画面には夕方のニュースが流れている。


 相変わらず恰幅のいい体型。体重は百に迫るかというところ。女性向けのかわいらしいデザインの椅子が悲鳴を上げてそうだ。

 叔父は人の良さそうな丸顔を私に向けてきた。


「悪いねぇほんとに」

「いいですって」


 お店の手伝いは私が自分から買って出たことだ。

 手伝いと言っても、洗い物や掃除が主。先月から二、三日に一回のペースで来ている。


 さほど大きくもない店だ。カウンターの他にテーブルも4席しかない。以前はもっとあったそうだが減らしたらしい。

 もともと叔父が一人でやっていたが、去年腰をやってしまって人を雇った。

 はいいが、その雇った女子大生が突然やめてしまったという。


「ちゃんと来てくれるだけで助かるよ」


 急な欠勤が多く、少し注意したら折り合いが悪くなったとか。

 いろいろと泣き寝入りするような形になったらしい。見た目に違わず人がいい。


「そんな人、さっさとやめてもらえばよかったんじゃないですか?」

「まぁでも愛想がいい子だったからさ。ルックスもよかったし」

「……私だと不満ですか?」

「い、いやーそうは言ってないけども……」

「けども?」


 叔父は困ったように頭をかいた。

 実際私が任せられるのは、掃除や荷物の整理などの裏方のみ。

 

 接客に向いていないのは自分でもわかっている。

 けれど向いてないで済ませるわけにもいかない。生きていくためには、いやでも社会に適応していかなければならないのだ。


 勉強さえしていれば、テストの点数さえよければ、なんていつまでもそんな考えではいられない。日増しにその思いは強くなってきている。


「まあ大丈夫だよ、腰もよくなってきたし、いざとなったら一人でもなんとかなるからさ」


 それはそれでどうかと思う。いつ来ても閑散としていて、そこまで忙しそうにしているところを見たことがない。お客さんもほとんどが常連。

 叔母の話によると、ほぼほぼ赤字を垂れ流しているらしい。もう好きにさせれば、と諦めている。


 それならやめればいいのに、とも思うが、叔父は単純にこの空間が好きなんだという。

 好きな音楽と、コーヒー。それはわからないでもないが、こんなのんびりしていていいのかとも思う。

 叔父はまだ四十後半。同年代はあくせく働いているだろうし。

 

 けれどそんな彼が、昔はバリバリの営業マンだったというからよくわかない。お酒が入ったときに、うんぜん万の家をいくつも売ったとかそういう話をする。

 お金は残ったが精神に不調をきたした、とも。叔母はまるで人が変わったようだと言っていた。

 

「な、なに? なにか言いたいことある?」

「いえ、別に」

  

 叔父が私のご機嫌を伺うようなそぶりをする。とはいえ、そういう弱気な態度がよくないのではないだろうか。

 そんな怖がるような……いや二周りも年下の小娘を怖がるわけがない。変に気を遣われているのだ。 


 黙って掃除に取り掛かる。

 基本は高い位置から下に。ホコリの溜まりやすい窓枠の隅から攻めていく。テーブル、カウンター席を水拭き。ほうきで床をさらったあとモップがけ。もう手慣れたものだ。


 無心で清掃を続ける。何も考えない時間を作ることがいい精神修行になる、とかつて道場の先生が言っていた。

 一切の思考を止める。目の前のことだけに集中し、今している作業に没頭して……。


 ――千尋はあたしのこと、助けようとしてくれたんだよね。ありがと。


 急に彼女の言葉が頭をよぎる。続けて、蘇る手の感触。

 人に頭を撫でられたことなんて、これまであったかどうか。うんと幼い頃にあったのかもしれないが、今の私の記憶にはない。


 もし母親がいたら、あんな感じなのだろうか。どこかの白い部屋で、ベッドの上で、優しく頭を撫でる姿。かすかに、覚えているような、いないような。


 ……なんてことを考えている場合ではない。

 それかけた意識を戻す。トイレも少し汚れがあったので、きれいにしないと。


 立ち上がって店内奥の扉に向かう。ちょうどそのとき、背後でカランカランと入り口のベルが鳴る音がした。

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