第13話

 夕食の後は一人で自室にこもった。

 勉強机にテキストと、ノート。課題のプリントを広げる。いつもの日課。


 ずっと焦っている感じがあった。高校生になって、二学年になって、それはより顕著になった。色々やらなければならないことがある気がして、でも具体的には何も思いつかなくて。


 結局、同じことの繰り返し。とにかく今は自分にできることを、すべきことをするしかないのだ。まずは、勉強。


 学校の成績は良い、という部類に入る。けれど頭脳が優れている、という自覚はない。誇るとするならば、人より集中力はあると思う。これも子供の頃から竹刀を振るっていた成果か。


 余計な考えを排除して、思考を止める。自分の感情に気づいて、観察する。今していることに集中する。試合前の精神統一に似ている。たいていのことは気にならなくなる。

 

 今日やることを終えて、ペンを置いた。予定より早く終わった。

 集中を解くとドアの向こう側から、かすかに笑い声が聞こえる。


 リビングでは帰宅した叔父が、テレビに向かって一人でちびちびと晩酌中のはずだ。

 私の部屋にも一応テレビはあるけども、あまり使わない。

 もっぱら一人で映画を見たりするときに使う。若干バカにされたけども、趣味映画鑑賞なので。

 

 小休止したのち、明日の準備をする。

 テキスト類をカバンに詰めようとすると、中からカバーのかかった見慣れない本が出てきた。


 手に取るもやはり覚えがない。

 一瞬頭が混乱したあと、すぐに思い出した。

 この本は本屋に行ったとき、ひまりに押し付けられたものだ。


 本、というより中身はマンガらしかった。

 何の気なしに開いてみる。ちょうど真ん中のページ。


 すると思いがけないものが目に飛び込んできた。男性同士が半裸で絡み合う姿。もちろん相撲を取っているとかそういう話ではない。

 私は変な声が漏れそうになるのをこらえつつ、本を閉じた。

 

 こういうたぐいの本があること、認知はしている。

 けれどこうやって目にするのは初めてだ。


 どういう意図があって私にこれを渡してきたのか。

 彼女がこういったものを嗜む人種ではないと思っていたから、意外だった。

 

 しかし考え方次第では、プラスに捉えることもできる。

 こうったものを好んでいること、一般的には自ら公にするものではない。

 

 ある種、彼女の弱みを握ったとも取れる。自分から弱みを晒してきたのだ。ということはこれが彼女に借りを返すための、なんらかの糸口になるかもしれない。

 

 私は意味もなく部屋を見渡した。もちろん誰もいない。外の様子にも変化はない。

 気を取り直し、椅子に座り直した。

 本を開いて、頭からページをたぐる。

 

 序盤は意外に丁寧な導入だった。さっきはいきなり激しい場面を開いてしまったらしい。幼なじみ同士、という設定で、何気ない日常から話は始まる。


 ……いや、待った。

 普通に読んでしまっている。本当にこのまま読むつもりなのか。

 しかしこの始まりから、どうしたらああなるのか。あんなことになってしまうのか。ショッキングなシーンを先に見てしまったがために余計気になる。

 結局、私はさらにページを、


 めくる。めくる。

 もどる。めくる。

 まためくる。

 めくる、めくる。

 もどる、もどる、めくる。

  

 いつしか私は完全に物語に没頭していた。

 静かだった。目の前のことに集中していた。精神統一。

 例によって何も聞こえていなかった。背後から、自分の名前を呼ばれるまで。


「千尋?」


 ぎくっと背筋が伸びて、我に返った。

 慌てて立ち上がって振り返る。本を後ろ手で閉じて隠した。


「なんだいるじゃない。ノックしても返事しないから」


 ドアの隙間から叔母が顔をのぞかせていた。そのまま開けて入ってくる。

 いつの間にか帰宅していたらしい。早まる心臓の鼓動を聞きつつ、私は尋ねる。


「ど、どうかしましたか?」

「これ職場の人におみやげもらったんだけど、食べる~?」

 

 包みに入ったおまんじゅうを二つ差し出してきた。 

 正直おまんじゅうどころではなかったが、この場合断ってもどのみち食べさせられる。


「あ、は、はい。いただきます」

「何してたの? また勉強?」

「え、ええ、まあ……」

 

 手を伸ばしておまんじゅうを受け取ろうとする。

 しかしその拍子に、後ろ手に押さえていた本が机を滑って床に落ちた。

 ばさっと音がして、ちょうどうまい具合に紙のカバーがめくれる。


 私は固まった。こういうとき、逆に体は動かなくなるらしい。

 慌ててしゃがんで飛びつこうとするが、それよりも先に叔母の手が本を拾い上げた。


「あら? 珍しいじゃないマンガなんて……」


 少しだけ本をめくった叔母の手が止まった。「え?」という目が私の顔を見た。

 私は柄にもなく取り乱していた。すかさず弁明を入れる。


「そ、それはと、友達に勝手に押し付けられて!」

「えっ、友達?」


 とっさに口走ってしまったが、はたして友達、なのだろうか。少し違うような気がする。

 クラスメイト、と言い直そうとすると、


「友達か~そっか~」


 叔母は感慨深げに頷いている。

 かねてから私に友達がいないことを気にかけていた。千尋はうちに友達連れてこないよね、だとか、ときおりからかい混じりに言う。


 別に私だってずっと今まで友達ゼロでやってきたわけじゃない。家に連れてくるような仲――叔母が見ているところでそういう影がなかっただけ。

 学校で多少言葉を交わすぐらいなら、これまでだって何人かいた。今はたまたまいないだけで。


「でもなんか安心したかも。千尋もこういうの興味あるんだって」

「だ、だからこれは違っ……」

「まぁ若いうちはね、好きにしたらいいわよ。あんまりこじらせるとアレだけど」


 叔母はご丁寧にカバーを掛け直して、本を机の上に置いた。

 そして「ごめんね邪魔しちゃって」と付け足して、部屋を出ていった。

 

「……」


 私は無言で、いや若干放心状態で椅子に腰掛け、背をもたれた。

 ……最悪だ。


 これでまた一つ、別の借りができてしまった。

 左藤ひまりに返さなければいけない借りが。

 私は決意を新たにした。

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