陽キャ女子に弱みを握られたので握り返してやることにしました

荒三水

第1話

 私の机には落書きがある。

 女性器と男性器を模したらしい幼稚なものだ。机の手前の右端に、細い線で傷をつけるように描かれている。

 二年に進級してクラスが変わって、授業中にノートを広げたときに気付いた。


 低俗で、くだらない落書き。

 最初はたかが落書きと、そこまで気にも留めていなかった。


 けれども毎日毎日、登校のたびに。授業のたびに。着席のたびに。

 嫌でも目に入ってくる。そのたびに、嫌悪感と不快感に襲われる。


 これを彫りつけた人間が、前にこの席を使っていたのだと思うと、気分が悪くなる。椅子に座るのも嫌になる。


 誰がどういうつもりでこんな落書きを彫りつけたのか。私がもっとも毛嫌いするような人種。そんな輩の思考など、とうてい及びのつくことではない。


 隅っこの、小さな落書き。

 それはもはや、呪いの刻印のようだった。じわじわと体を侵蝕する毒のように、私を蝕んでいた。

 

 ――机に変な落書きがあります。

 

 本来ならそうやってすぐ教師に言うべきだった。

 けれど口にすることすら憚られた。担任はまだ若い男性教師。いや男だとか女だとか若いとか年寄りとか、そんなもの関係ない。


 だいいちこんなくだらないことで、手をわずらわせるのはどうかと思った。当初の私は取るに足らないものと、この落書きを見くびっていた。


 そして今となっては時間が経ちすぎた。新しいクラスになって、この席になってそろそろ一月。

 自分の視界に入るのは、まだ許せるとして。もしこれが他人の目に触れたとき、どう思われるだろうか。

 

 万が一にも、私が疑われるようなことがあってはならない。 

 もはや無関係を装うわけにはいかなくなっていた。

 私は落書きを、この手で消すことにした。


 教室から完全に人がいなくなるタイミングは限られていた。

 朝はいつ誰がやってくるかわからない。教室が何時に開いているのかも知らない。放課後はいつも誰かが遅くまで残っている。


 結局私が選んだのは、移動教室の授業の時間。

 本当は授業に遅れて、目立つような真似はしたくなかった。これまで学校はずっと無遅刻、無欠席。わずかな遅刻すらない。


 よくよく考えれば、もっと適切な時と場所があったかもしれない。まったく別の、よりよい方法も。


 けれど私は一刻も早く、落書きを消したかった。

 その焦りが思考を、判断を鈍らせた。

 

 休み時間のあいだにトイレの個室に潜み、授業開始のチャイムが鳴るのを待った。

 予鈴が聞こえた数分後、私はトイレを抜け出す。


 廊下に人がいないことを確認し、小走りに渡り廊下を抜ける。

 つきあたりを折れて教室へ。経路は事前に決めてあった。授業中の教室の前を通らなくてすむルート。問題なく目的地に到達する。

 

 教室は無人だった。

 引き戸は開けっ放し。窓際のカーテンがかすかに揺れていた。入り込んだ太陽の光が並んだ机を照らしている。


 人のいない教室。初めて見る光景に、不思議な感覚に襲われた。

 しかしのんびりしている場合ではない。私はまっすぐ自分の席に向かった。教室中央の列、先頭の席。


 制服のポケットから紙やすりを取り出した。すぐさま落書きに押し当てて、表面を擦る。

 悪い予感は的中した。線は細いわりに深く、簡単には消えそうになかった。この紙やすりでは厳しいかもしれない。どのみち時間がかかりすぎる。


 カバンから彫刻刀がいくつか入ったケースを取り出す。中学の時に美術の授業で使ったものだ。できれば使いたくなかったが、念のため用意した。

 取り出したのは、刃の丸まった大きめの一本。柄をぐっと握り込んで、刃先を机に押し付ける。

 

 学校の公共物に傷をつけるような真似をしてはいけないのは、もちろんわかっている。

 しかし悪いのはこれを彫った人間であって、私ではない。このままにしておけば、次に使う人間だって不快になる。きっと遅かれ早かれ、誰かの手によって落書きは処置されるだろう。


 などと自分を正当化する気はなかった。


 私は妙な強迫観念のようなものに取り憑かれていた。

 なんとしてもこの印を消さなければ。自分を苦しめた、この落書きを。

 この手で始末をつけなければ、もはや気がすまなくなっていた。

 

 添えた右手にぐっと力を込める。机は思いのほか硬かった。うまく刃が入らない。

 焦りで動悸がした。手元が震えていた。


 再度力を込めると、やっとのことで刃が通った。黒ずんだ茶色の木目が削れて丸まる。

 要領を得て、再び刃を入れる。今度はすんなりいった。私は立て続けに、机に向かって刃を突き立てた。


 手早く済ませて、化学教室に向かわなければならなかった。

 何もすべてきれいまっさらにする必要はないのだ。線の形が、落書きがそれとわからなくなればそれでいい。


 けれども私は、執拗に攻め立てていた。

 これまで恨みを晴らすかのように、黙々と。一心不乱に。


 だから背後から近づく足音にも、気配にもまったく気づかなかった。背中のすぐ後ろから、声をかけられるまで。

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