第16話
「千尋!」
あたしは思わず叫んでいた。倒れ込んだ千尋にかけよる。
手を差し伸べる前に千尋はすばやく立ち上がった。人の手など借りるかと言わんばかりだ。視線はボールの行方を探している。
「ごめんなさい、大丈夫?」
「大丈夫です」
聖奈が声をかけるも、千尋はろくに顔も見ずに答える。
さっきは二人の足元が絡まったように見えた。聖奈が千尋の足を引っ掛けたか、踏んでしまったのかもしれない。
たぶんディフェンス――聖奈のファール。でもそれを判断できる審判なんていない。
先生は向かいのコートでやっている試合の方についていて、こちらは生徒しか見ていない。
コート上が一瞬静まり返る。その中を、千尋は悠然と歩いてボールを拾った。
じっと彼女を注視していたあたしは、ある変化に気づいた。声を上げて指差す。
「それ肘! 血が出てる!」
垂れるほどじゃないけど、皮膚の表面に赤く、じんわりとにじんでいる。床で擦りむいたらしい。
千尋は腕を曲げて、無表情に自分の肘を見た。腕を持ち上げると、舌を伸ばして傷口をなめた。
「これぐらい大丈夫です。こっちボールですよね」
うーんワイルド。
それであってるけど、質問には誰も答えなかった。
千尋は何事もなかったかのようにすぐさまリスタートする。いつまでもぼうっとするな、とばかりにあたしにパスを投げてきた。
たぶん聞かないだろうなこの子は。
そう思ってあたしも試合を再開した。パスをくれと手を上げる千尋にボールを戻す。
聖奈はというと、まだ立ち呆けていた。
バスケ部員が体育で軽くケガをさせた、ってなると聞こえはよくない。咲希も遠目に、心配そうに聖奈の顔色をうかがっている。
一方の千尋はチャンスとばかりにゴール下に切り込んでいって、シュート。外すが自分で拾ってもう一度シュート。ゴール。
「本当に大丈夫?」
自コートに戻りながら千尋に近づいていって尋ねる。
千尋は大丈夫、としか言わない。目はめくられたスコアを睨んでいた。
それ以降、聖奈の動きが極端に鈍くなった。
それに従うかのように、咲希もおとなしくなる。
反対に味方の士気が上がってきた。テクニックはないけど必死に動いている千尋の姿に感化されたか。千尋本人も俄然勢いづいている。
敵チームも聖奈と咲希以外のメンバーはこちらとほとんど同じレベル。試合は徐々に盛り返し、ついには逆転したところで、終了の笛が鳴った。
試合後、あたしと千尋は体育館を抜けて保健室に向かった。
千尋が大丈夫、と言ってきかないので、あたしが先生に告げ口した。武内さんが転んで擦りむいたみたいです、と。
保健室で診てもらってきなさい、と先生に言われると千尋はおとなしく従った。さすがに教師に逆らうことはしないみたいだ。そこは真面目。
で、あたしも付き添いという名目でついていく。いらないって言われたけど。
ノックののち、おそるおそる保健室の戸を開ける。
部屋には誰もいなかった。電気はつけっぱなしなので、保健の先生はちょうど席を外しているっぽい。
「なんでいないんだよ~。職務怠慢じゃん」
などと言いながら、あたしは部屋を見渡した。
保健室ってあんまり入ったことがない。
そういえばこの前来たときも誰もいなかった。そのときは部活中で、放課後だったけど。手当とかもセルフサービスですませた。
あたしは千尋を振り返ってきいた。
「ちょっと腕見せて」
「だからたいしたことないですって」
「いいから」
腕を取って傷口を確認する。やはり少し血が滲んでいる。痛いは痛いはずだ。
その拍子に体操服の袖からちらりと腋が見えた。きれいだった。ムダ毛とか、ちゃんと処理してるのかな。
……なんだろう、なぜかこっちが恥ずかしい。
目をそらして腕を解放すると、あたしは室内を物色する。
「ないかな~? 消毒液みたいなの」
「勝手に触ったら怒られませんか?」
「だって先生いないんだもん」
やっぱり変なとこでは真面目。ルールには厳しいというか。
壁際のラックに、救急用品が入っているのを発見した。ガーゼとか絆創膏……の前に消毒か。
「あった、消毒スプレー」
スプレーを手に取ると、すかさず千尋が手を伸ばしてくる。
「貸してください」
「いや、あたしがやってあげるから」
「自分でできます」
「自分でやりづらいでしょって」
「いやできますって」
「やってあげるっつってんだろが」
いい加減キレた。まったくもう本当にこの子は。どんだけ助けを借りたくないのか。
千尋はしぶしぶといった顔で、だらんと腕を伸ばしてきた。反抗のつもりか、傷口があさってのほうを向いている。手のかかる子供か。
あたしは千尋の手首を引っ張ると、傷口めがけてスプレーを吹きかける。
「痛い? しみる?」
「大丈夫です」
「ほんとに~?」
千尋は表情をぴくりとも動かさない。
またやせ我慢しているのか。いやこの人もしかして痛覚ないのか。
表情を観察しつつ、もう一度スプレーを吹きかける。やっぱりノーリアクション。
痛いしみるぅっ、ってちょっとは弱みを見せてくれてもいいのに。まあ痛くないに越したことはないけども。
「もういいですか?」
消毒は終わった。
いいはいいけども、それで満足ですかみたいな言い方されるのはね。
なんか物足りない。というか本気でちょっと心配になってきた。あたしはスプレーをしまうと見せかけ、千尋の背後に回り込んで両脇を指でつついた。
「ひゃっ!?」
背筋がびくっと伸びて、かわいい声が出た。
よかった。皮膚の感覚が死んでいるというわけではないみたいだ。
「な、なにするんですかもうっ!」
怒った顔が振り返ってきた。頬が赤らんでいる。かわいい。
まではよかったけど、そのあとのことは考えてなかった。
千尋はあたしに詰め寄ってくると、おもむろに手を伸ばして、正面から脇を指でつついてきた。
「ひぁっ……」
勝手に口から変な声が漏れる。
くすぐったい……というよりも、え? と頭が混乱する。
まさか反撃を受けるとは思ってなかった。負けず嫌いなんだろうなとは思っていたけども、やり返してくるとは。
しかも倍返しとばかりに二回、三回と続けてつつかれる。
いや三倍返し? 容赦ない。
「ちょ、ちょ、ちょい!」
慌てて体をよじるあたしを見て、千尋は少しだけ笑っているような気がした。こいつ実はドSか。
こっちも負けじと手を伸ばす。反撃の反撃。
しかし不意打ちでないからか、脇をくすぐってもまったく反応がない。いや我慢してポーカーフェイスを作っているに違いない。
くそ、こうなったらもう胸揉んでやろうか。
とあたしが胸元に手を伸ばしかけたそのとき。
がらりと保健室の戸が開いた。
姿を現したのはあたしたちと同じ体操服の生徒――聖奈だった。
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