第31話

 連休が明けて、5月の中旬。

 二学年になって初めての中間テストが一週間後に差し迫っていた。

  

 あれ以来、山下は私の席にやってきて話しかけてくるようなことはなくなった。ときおり目が合ったりすると、謎に微笑みかけてきたりするが無視。佐藤翔という男子生徒も、その後なにか言ってくることはなかった。ただ今後どうなるかはわからない。


「放課後一緒にテス勉しよーぜテス勉!」


 元の日常に戻りつつあったある日の昼休み。ひまりが突然誘いをかけてきた。

 彼女との微妙な関係は続いている。つかず離れずの距離。


 彼女に借りを返す、という当初の目的は、うやむやになりつつあった。というより、なかなか進む気配がない。

 これまでのことで、多少は返せたつもりでいる。けれどそのぶん、また増えている気もする。

 その貸し借りが同じバランスだとすると、結局私が貸しを作っている状態に戻る。


「一緒に勉強は、効率が悪いと思いますけど」


 周りでそういう姿を見かけるが、勉強がはかどっているようには見えない。そもそも私は、誰かと一緒に勉強なんてしたことがない。

 ひまりはまるで私の返事を読んでいたかのようにたたみかけてくる。


「千尋って頭いいんでしょ? 勉強教えてよ」

「同級生に勉強教えてもらうって、なんのために学校通ってるんですか? 授業受けてる意味あるんですか?」

「いきなり辛辣すぎるだろ」


 ひまりはけらけらと笑う。私は別に冗談で言ったわけじゃない。

 けれど、勉強を教える側と、教えられる側。

 これだけ関係がはっきりしていれば、わかりやすく貸し借りのバランスを傾かせることができる。

 私は頷いた。

 

「まあ、いいでしょう」

「やりぃ」


 ひまりは親指を立てると、私の席から風のように去っていった。教室のやかましさの中に消えていく後ろ姿を見送る。それから放課後になるまでの時間がやけに長く感じられた。



 

 放課後に勉強をする場所には、いくつか選択肢があった。

 教室、自習室。部室で勉強する人もいるらしい。カフェやファミレスを利用するものもいるそうだが、学校の外は元から選択肢になかった。

 そんな中私が選んだのは図書室だった。教室以外では、一番慣れている場所だ。


「ほー、いいねここ」

 

 ひまりが隣で椅子を引きながら、息をつく。

 図書室は意外に穴場だ。部屋の真ん中には大きな長机が、窓際には二人がけの机がずらっと縦に並んでいる。

 椅子もがっしりした、座りごごちのいいものが置いてある。


 基本的に早いもの勝ちだ。

 私たちは窓際の机のひとつを確保した。授業が終わるなりまっすぐやってきたが、空席はだんだんと埋まりつつある。

 

「数学とかガチ苦手なのよね~。コレとか意味わかんないし」


 ひまりはこの前授業で解いた問題のプリントを見せてきた。

 この問題はテストに出すぞと教師が言っていたものだ。

  

「わからないもなにも、その解説にあるとおりですけど」

「教えるの下手か」

「それのなにがわからないんですか? 日本語が読めない?」

「煽るの上手か」


 なにがわからないのかわからない。これだと教えようがない。

 しまいにひまりは「もうやだ。怒られるから英語やろ」といって別のテキストを広げ始めた。


 眺めているのは単語帳らしく、それこそなにか教えるようなことはない。 

 どのみち周りが静かで、あまり声を出していると迷惑になる。

  

 私も問題集を取り出し、自分の勉強に取り掛かる。 

 国数英は日頃からしっかりやっているので問題はないが、暗記科目はおさらいをしないといけない。



 それから小一時間もたっただろうか。

 軽く区切りがついて、顔を上げる。隣のひまりはやけに静かだった。ちらりと様子をうかがうと、ひまりはテキストではなくスマホを眺めていた。

 

「あっ、ちょっと休憩休憩」


 私の視線に気づくなり、弁解するように言う。私はさらに目を細める。


「⋯⋯勉強やる気あるんですか」

「しーっ。図書室は静かに」

 

 人差し指を立ててくる。

 黙ってじろりとやると、ひまりはしぶしぶスマホをしまった。


 私は勉強に戻ろうと、机に視線を落とす。集中しようとした矢先、頬になにかが当たる感触がした。


「ぷに」

 

 ひまりの指先が私の頬をつついていた。擬音付きで。

 いったいなんのつもりか。


「なんですか」

「ぷにぷに」

「やめてください」


 つついてくる手を払う。

 どうやらひまりは完全に集中力が切れているらしい。正味一時間ももってない。

 呆れ顔を向けると、ひまりはいたずらっぽく笑って首をかしげた。


「怒った?」

「怒ってません」

「照れた?」

「照れてません」


 ぴしゃりとシャットアウトすると、ひまりは一転して不満そうに口をとがらせた。


「だって思ってたのと違うんよ~。もうこれガチ勉じゃん。なんかもっとこう、楽しくおしゃべりしながらさ~」

「静かに」


 私はひまりの唇に向かって人差し指を立てる。

 ひまりは口を開いて、私の指を食べる仕草をした。慌てて引っ込める。

 若干前のめりになったひまりは、そのまま上目遣いに私を見つめてきた。

 

「じ~」

「⋯⋯なんですか?」

「千尋ってやっぱ、かわいいよね」

「⋯⋯は?」


 急に思いもよらないことを言われて固まる。

 そういう本人だって、十分かわいい、範疇に入る。


 顔のパーツはシャープながらも、輪郭は少し丸みを帯びていて優しい印象を与える。ひだのある丸っこい目は、ときおり幼い子どものようにも見える。


 私もこんな目をしていたら、もっと優しそうに見えるかな、なんて羨ましくも思った。

 気づけば欲しいものを見つめるように、視線が釘付けになっていた。

 お互い無言のまま、近距離で見つめ合う。


「あ、ひまり、ここにいたんだ」


 背後から声が降ってくる。

 ひまりははっと目をそらして、顔を上げた。私も一緒になって声のしたほうを振り向く。


「武内さんも一緒? ちゃんと勉強してるの?」


 声の主は高塚聖奈だった。高い位置から微笑みかけてくる。

 少し慌てた様子のひまりが取り繕うように聞いた。

 

「あ、あれ? 聖奈部活は?」

「今テスト休みだから、わたしも勉強しようと思って」

「あぁ、そっか。いまちょっと千尋に、勉強教えてもらってて⋯⋯」

「へーいいなー。わたしも教えてほしいなー」

「聖奈は十分できるでしょ。だいたいさ、」

「あのちょっと、静かにしたほうが」


 私はひまりの声を遮った。

 徐々に声のトーンが大きくなっている。これ以上は周りに迷惑だ。

 

「ん~⋯⋯そうだね、ここだとうるさいよね。席空いてないみたいだし、教室行こうか?」


 聖奈が私たちの顔を見比べるようにして言った。

 ひまりが困ったような視線を流してきた。私は答えた。

 

「いえ、私はここでいいです」


 教室はいわゆる駄弁りながら、には向いているが、静かに集中したい人にとっては不向きだ。

 聖奈は目線を上げて、なにか考えるそぶりをする。

 

「あーそっか。じゃあ⋯⋯」

「私のことは気にせずに、どうぞ」


 できるだけ柔らかい声で言った。

 私なりに空気を読んだつもりだ。どのみちひまりはここにいても集中できてない。

 

「あ、でも⋯⋯」

「ひまりは邪魔してるんじゃないの? ほら行こ」


 なにか言いかけたひまりを、聖奈が促す。結局ひまりは聖奈に引き取られるような形で、図書室を出ていった。

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