第30話
あたしの視線に気づいた翔が、背後を振り返った。低い声で聞く。
「なに? なんか用?」
あたしをのぞきこんでいた千尋が、足を止めて答えた。
「押しに弱いそうなので。ちょっと、様子を」
「はあ?」
翔が眉をひそめた。不機嫌そうに⋯⋯というか困惑しているようだった。
え?
あれ?
それって、なに?
千尋が。あの千尋が。
あたしのことが心配で、様子を見に来てくれた? なかなか戻ってこないから?
押しに弱いんだよね、みたいな話、たしかにした。覚えててくれた。
なにこれ、めちゃめちゃうれしい。胸がどきってした。きゅんとした。
え、今? 今になって急に? 千尋に? どうなってんのこれ。
「今マジな話してんの。邪魔しないでくれる?」
翔が千尋を睨みつけた。一瞬気を抜きかけたけど、また本気モードだ。
けれど千尋は山下のようにたじろいだりはしなかった。黙って見つめ返して、それからあたしに視線をよこした。
あたしの体は動いていた。翔の脇を抜けて、千尋の側へ。背後に隠れた。
どさくさにまぎれてぎゅっと腕を抱きしめた。鼻の近くで千尋の髪が揺れて、いい匂い。安心する。
翔が顔をしかめた。
「おいおい、なに? なんだよ、それ?」
「あたし、千尋に守ってもらうからいいよーだ! べろべろべろべー!」
千尋の背中から顔をのぞかせて、憎たらしく煽った。急に元気出てきた。
うん、いつものあたしだ。さっきは完全におかしな空気に飲まれてた。
「なんだよ、急に態度デカくなりやがって! あーそう? ほんとにいいの? 知らねえよ?」
「はいはい余計なお世話でーす」
翔がまたあの空気を出してきたけど、あたしは軽く受け流した。
「ふざけてるのかしらんけどさ。あのさ、なんかあったとき守れないでしょ。武内さんじゃ。守れんの?」
翔の矛先が千尋に向いた。千尋は身じろぎもせず答えた。
「守れます。私、強いので」
「はぁ?」
翔は鼻で笑った。
「かわいいね、イキっちゃって。じゃあここで取っ組み合いしてみる?」
冗談ぽく言って、にじり寄ってくる。
ふざけてるだけだろうけど、やっぱちょっと怖い。
もう相手にしないで逃げよう、という意味を込めて、あたしは千尋の腕を引く。けれど千尋は引かなかった。
かわりに翔に向かって、すっと腕を持ち上げた。
「えっ⋯⋯」
翔が足を止めて目を見張った。
その視線の先、千尋の手には、いつぞやの彫刻刀が握られていた。切っ先を翔に向けている。
「な、なんでそんなもん持ってんだよ。なんだよそれ、やばいだろ」
さすがの翔もたじろいでいる。
思いもよらないものが出てきて驚いている、といった様子だ。
翔は一歩下がって、千尋を指さした。
「なあひまり、ほんとにいいのか? 頭おかしいぞこの女」
「知ってる。あたしもそれ突きつけられたことあるし」
「はあ?」
「頼もしいでしょ?」
翔はあたしを見て、千尋を見た。それから、憑き物でも落ちたようにがくりと首をうなだれた。
「はぁ、くそ。なんだよ、いけると思ったんだけどなぁ~⋯⋯」
翔の表情から敵意が消えた。いつもの余裕ぶっこいたスカし顔に戻った。
「まさかこんな変な女に足元すくわれるとはねぇ⋯⋯」
変な女言われてる。
あんまり言うと彫刻刀でぶっ刺されるぞ。
「ま、いいや。もし気が変わったらいつでも言って。でもま、そのときは別のやつと付き合ってるかもしんねーけど。あはは」
なにわろとんねんこいつ。
そんなやつに誰が頼るか。やっぱり流されなくてよかった。
翔は「そんじゃ」といって、ダルそうにゆっくり廊下を戻っていった。遠ざかっていく姿を見送ると、あたしはすぐさま千尋に向き直った。
「んもう、なんてもん持ち歩いてんの!」
千尋はだらりと下げた手にまだブツを握っていた。あたしが注意すると、すぐポケットにしまった。真顔のまま弁解をする。
「これはちょっとちらつかせただけで、本気で使う気はないです。なんとなく嫌な予感がしたので、念のため」
「なにその脅しに使うみたいな言い方。その筋の人ですか?」
本当に無茶をする。山下の頭を踏みつけた時しかり。
下手するといつか警察のお世話になったりするんじゃないかこの人。
けどそれも、あたしを助けるためにしてくれたことだ。
心配になる反面、うれしくもあった。
⋯⋯え、やばい。なんか今ヤンキーに惚れる女の気持ちがちょっとわかったかもしれない。
そんなあたしの頭の中なんて知る由もないであろういつもの無表情で、千尋は聞いてくる。
「あの、さっきから守る守れないって⋯⋯なんか、あるんですか?」
「さあね~? 白馬の王子様とかそういうのに憧れてるんじゃないかな?」
翔との話、どこから聞かれてたのかわからないけど、結構鋭い。
翔は俺は知ってるっていうけど、勘違いしてる。だってそれはもう済んだことだし。実際、今はぱたっとなくなった。
単純に人が弱ってるところを狙うっていう上等手段だ。
あたしはそんなのには騙されない。騙されそうになったけど。千尋のおかげで我に返れた。
千尋がなおも疑わしそうな顔を向けてくるので、あたしもさらにおどけてみせる。
「でも千尋、あたしのこと守ってくれるんだ~? よっ、王子様」
「それは⋯⋯話の流れがよくわかってなかったので。ひまりは誰かに命を狙われてるんですか?」
「そう。実はあたし、さる大国のお姫様なの。今お忍びで日本にやってきててね」
「へえ、それは大変ですね」
「微塵も信じる気配なし」
笑い飛ばして、今度こそごまかした。
さて教室戻ろ、と踵を返すと、頭になにかが触れる感覚がした。振り返ると、千尋の手があたしの頭を撫でていた。
「な、な、なに?」
「なんか、強がってるみたいなので」
急にかあっと頬が熱くなる。
一連の言動をすべて見抜かれたような気がして、恥ずかしくなる。
でも嫌な気持ちじゃなかった。優しくなでつける手のひらが心地よくて、なぜか胸がどきどきする。
あたしは肩をすくめて上目遣いに千尋の顔を見た。けどすぐ目を見れなくなってうつむいた。されるがままになっていると、チャイムが鳴った。千尋はあっさり手を離した。
「なにかあったら、言ってください」
そう言って、さっそうと廊下を歩き出す。
急にどうしたんだ千尋ちゃん。ちょっとイケメンじゃない?
いつも言葉足らずで、多くは口にしない。それでもぺらぺらと口先だけのやつより、よっぽど頼りがいがある。
けどいずれにしたって、いらない心配だ。
彼女が気にかけるようなことは、なんにもないんだから。
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