第32話

 外が完全に暗くなる前に学校を出た。

 帰宅後、入浴と夕食を済ませ、自室に戻る。

 

 テスト勉強は中途半端になっていた。その後一人図書室に残ったはいいものの、いまいち集中できず、あまりはかどらなかった。


 気は進まなかったが、少しだけ机に向かうことにした。

 椅子に腰掛け、テキストとノートを広げる。数学のおさらいだ。たしかひまりがわからないと言っていた箇所だ。

 

 私は頭の中で問題を解いて⋯⋯どう解説すればいいか考えていた。

 初めてのことだ。一人だったらそんなこと、する意味がない。


 できるだけわかりやすい言葉を選ぶ。頭に彼女の笑顔がちらついた。

 思考はまたべつのことにそれていた。集中できない。こんなことも初めてだった。


 勉強机に置きっぱなしだったスマホに目が留まる。 

 手にとって、なんとなく通話アプリを開いてみた。数少ない連絡先を確認する。ひまりのステータス欄には、『ラスボス数学』とある。


 少しだけ口元が緩んだ。

 けれどなにか連絡するわけでもなく。連絡が来ているわけでもない。

 

 画面を落とそうとすると、いきなりスマホが震えた。メッセージの通知が届く。ひまりからだった。


『ごめんねー。あたしから誘っておいて』


 さっきの図書室での件を言っているのだろう。

 けれどそれで言うなら、勉強教えて、という話に私はろくに応じてない。図書室を選んだのがまず間違いだった。


『べつにいいですよ』

『怒ってない?』

『怒ってません』

『怒ってるやん』


 やりとりをするが、文字だけだとうまくニュアンスが伝わらない。 

 絵文字なりなんなりを入れればいいのだろうけど、勝手がよくわからない。


『あれ? 無視?』

『寝た?』


 私がまごついている間にもポンポン送られてくる。文面でのやり取りがまどろっこしくなってきた。

 それに何か勘違いされたままなのも嫌だ。どう絵文字で装飾しても、細かいニュアンスまでは伝わらない気がした。

 気づけば私は文字を打つのをやめて、受話器のマークを押していた。コール音がして、ひまりの声が聞こえる。


「⋯⋯も、もしもし?」

「怒ってません」


 私の第一声でひまりが吹き出した。

 なにを笑うことがあるのか。


「びっくりしたよ、いきなりかけてくるから」

「すみません」

「いや、いいんだけどさ、ぜんぜん」


 ついカっとなって、というやつだ。

 けれどお互いリアルタイムで画面をにらめっこしているなら、電話したほうが早いんじゃないかと思う。


 けれどもう要件は終わってしまった。少し気まずい沈黙になる。なるほどこれがあるから電話はよしたほうがいいのかもしれない。


「それじゃあ⋯⋯」

「千尋、今なにしてたの? 今って部屋?」


 通話を終わろうとすると、かぶせられた。


「はい。ちょっと、勉強をやろうかと⋯⋯」

「ふーん? 真面目だねぇ。もうご飯食べた?」

「食べました」

「何食べた?」


 他愛もない会話になる。

 お互いの夕食のメニューで話が膨らむ。 


「お風呂は入った?」

「入りました」

「へー先に入るんだ。あたしまだなんだよね」


 とりとめもない話が続く。 

 ひまりには姉がいて、超長風呂をするから迷惑しているらしい。これまで意外にそういった話はしたことがなかった。


「うふふ、なんかいいねこういうの」


 受話口からはずんだ声がする。

 最初は気を張っていた私も、背もたれに体を預けてリラックスしていた。


 声を聞いていると、なんだか落ち着く。

 ひまりの声は彼女の見た目や性格にそぐわず、柔らかい声色をしている。やかましくしゃべっても、うまく中和される。 

 だから口調がゆっくり、低くなると、余計に声の丸みが際立つ。


「あのさ、あたし……千尋の声、好きかも」

 

 一瞬どきりとした。

「千尋のこと、好き」と言われたのかと思った。今彼女は、「千尋の声、好き」といったのだ。


 声を褒められたのは初めてだった。

 ついうれしくなって、普段なら言わないようなことを口走っていた。


「私も、ひまりの声、好き、かも……」

「えっ、千尋あたしのこと好き?」


 急に大きな声でかぶせられた。ぎくりとする。


「なんだそっかそっかー。まあそんな気はしてたけどね!」

「ち、違う! 声が! って言ったの!」


 慌てて弁解すると、また大きな笑い声がした。

 

「もーわかってるって。からかっただけでしょ。てか、そんなムキになんなくてもよくない?」

「べつにそんな、ムキになってませんけど!」

「かわええのうかわええのう」


 かっと頬が火照るような感覚がする。

 これはべつに恥ずかしいとかじゃなくて、からかわれたことに対する憤りだ。顔が見えない状態でまだよかった。


「やっぱ千尋はさ、なんかさー。彼氏とか、作ったらいいと思うよ。山下とか翔とかああいうんじゃなくて。もっとちゃんとした人」


 急に話題が変わって、変な沈黙になった。

 それは私がすぐ返事をしなかったからだ。通話だと、少しの間も長く感じる。

 

「どうしてですか?」

「翔に変な女とか言われてたけど、べつに普通だし⋯⋯まあ、ちょっと頑固だけど。だからそういう彼氏みたいな人が一人でもいれば、変な目で見られなくなるんじゃないかなって」

「それは⋯⋯べつに友達とかだって、いいじゃないですか」


 ひまりだって、とは言わなかった。

 けれど私の交友関係からするに、言ったも同然だ。

 

「あたしって、ほら。いろいろトラブルメーカーっていうか、厄介者だからさ。一緒にいると、あんまりよくないかもなって」

「この前言ってたじゃないですか。千尋に守ってもらうからいいよ、とか」

「あれは冗談だよ。そんな迷惑かけられないし」

「迷惑かけるようなこと、なんかあるんですか?」

「んーだから、また翔とか山下みたいなのに絡まれるとだるいじゃん? 千尋って、あんまりその、いろんな人と仲良しするっていうか、コミュニケーションとったりするの得意じゃないっていうか⋯⋯嫌いでしょ?」


 嫌いとまでは言ってない。苦手なだけで。 

 それに、今は少し以前とは考えが変わり始めている。


「前も言ってたじゃん。あたしのせいで、千尋も話しかけられてるとかって」

「前は言ったかも知れないですけど、べつに、今は⋯⋯」

「それに千尋はあの⋯⋯聖奈とか。たぶん苦手でしょ」


 控えめながらも具体的な名前が出てきた。この話のくだり、もしかするとひまりは、彼女の話がしたかったのかもしれない。

 

「べつに得意も苦手もないです」

「そう? あの子は、いろいろうまいからね。気づいたらもうアレでコレよ」

「アレとは?」

「いやなんかこう⋯⋯モテモテ? 男女問わず。本人はそんなことないよって言うんだけど⋯⋯とにかく人気者なの」


 彼女がクラスの中心人物の一人であることは私にもわかる。いやでも目につく。クラス委員になったのも立候補ではなく他薦だった。

 

「だから怒らせたりすると、あんまし⋯⋯あれかも」

「私、怒らせましたか?」

「いや怒らせたわけではないけど。なんかその⋯⋯あれだ」


 ひまりはそこで口ごもった。珍しいことだ。

 必死に言葉を選んでいるようだった。


「とにかくあたしさ、疫病神みたいじゃん? ただでさえ、千尋にはいろいろ助けてもらってばっかで⋯⋯でも、もう迷惑かけらんないからさ」


 私はスマホを耳に当てたまま、宙を見つめていた。考え事をしているうちに、ひまりの声が、だんだん遠くなっていくような気がした。

  

「ごめんね、今日は。⋯⋯じゃね」

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