第10話
え、とひまりは私の顔を見て固まった。
意外な反応をされ、私も見つめ返してしまう。
それからすぐ、コーヒーの飲み口に視線を落とした。私は気にしないけど、他人が口をつけたものが嫌な人もいるだろう。配慮が足りなかった。
「やーちょっと、それは……」
飲み口を見て、ひまりが苦い顔をする。
私はすぐに缶を引っ込めた。
「失礼しました」
「え? いや、あたしちょっとコーヒーは……苦手っていうか飲めないっていうか」
別の理由だった。
けどそれも、回し飲みを断る方便かもしれない。コーヒーが飲めない、というのは私には共感しがたいけど、これ以上詮索するつもりはない。
「その、苦いっていうか……まずくない?」
……と思ったけどそれはちょっと聞き捨てならない。
「苦いならミルクなり砂糖なり多めに入れたらいいんじゃないですか」
「いやぁ、そこまでして飲むほどでも……」
「まずいってなんですかまずいって」
問いただすと、ひまりは手を上げてどうどう、のポーズを取った。
そして私の手から缶を取り上げて、得意げな顔をした。
「まぁ、最後に飲んだのはまだ小さいときだったからね。今だったらよさがわかるかも。もう大人の女ですから?」
そう言って口をつけると、ぐっと一息に缶をあおった。
一度、二度、白い喉元が上下する。まるで清涼飲料水でも飲むような勢いだ。飲みなれていないのが傍目にもわかる。
缶を唇から離したひまりは、ふーっと大きく息を吐いた。
「ん~……コーヒーだねぇ~!」
「どうですか?」
「うん、コーヒーだ!」
どうやらダメらしい。
ひまりは缶を押し付けるように戻してきた。私は再び口にして、残りを飲み干す。
「あ」
ひまりは何かに気づいたように、ぽかんと口を開けた。
私の手にある缶の縁を指さして、
「間接キス」
何を言い出すのかと思えば今さらだ。そこはまったく気にしていないのだと思っていた。
「え? それ今言うんですか?」
「今言うんですかって……ってことは、やだ千尋ちゃんたらずっと意識してたの?」
からかい口調で言われて、かっと頬が熱くなる。その事自体は意識もなにもないけども、改めて指摘されるともやっとなる。
さらにひまりはにまにまと笑みを浮かべながら、顔をのぞきこんでくる。
「あれれ? 急に顔赤くしちゃって、かわいいねえ?」
「赤くないですけど。夕日のせいじゃないですか」
漫画じゃあるまいし、赤くなった顔なんてわかるはずがない。
ひまりは「ほんとかな~?」と無遠慮に顔を近づけてくる。近い。また頬が熱くなる。
「いやなってるって。肌白いからわかりやすいんだよ」
「⋯⋯これは、怒りで顔が赤くなってるんです」
「なんでそんなブチ切れ?」
「とにかく違うって言ってますよね」
「すぐ怒るじゃんそうやって」
怒らせているのはどっちか。
それにこの程度ですぐ怒る、だとか言われるのは心外だ。
「だいたい間接キスだったらなんだっていうんですか?」
「別に……千尋が恥ずかしがったら面白いなって」
人をからかいたいだけらしい。
私はベンチから立ち上がって、自動販売機横のゴミ箱に缶を捨てる。
「寒くなってきたし、行こっか」
ひまりも立ち上がって、止めてある自転車に近づいた。この公園に寄ったのも、特別ここになにかあるというわけではないようだ。単純に私に飲み物をおごりたかっただけらしい。
「千尋はまだまっすぐだよね。あたし、あっちだから」
ひまりは私とは別の方角へハンドルの先を向けた。
どうやらここが分かれ道だったらしい。
自転車にまたがるが、ひまりはハンドルを握ったまま立ちつくしている。なにか言いたそうにしているので、
「なんですか?」
「あの、ごめんね? いろいろ付き合わせちゃって」
急に真面目な口調で言った。
別に気にしないで、とでも返せばよかったのかもしれない。けど私は別のことを聞いていた。
「謝るなら、どうして誘ったんですか?」
一人だって済む用事だ。責めているのではなく、単純に疑問に思った。
ひまりは気まずそうに頭をかいた。
「いやあの、ほんとは『一緒に行く?』『嫌です』みたいなやり取りして終わりだと思ったの。ネタっぽく」
「……なんでそんなことするんですか?」
「なんで? ん~……見かけたのに無言なのも変じゃん? コミュニケーションよコミュニケーション」
私が変な負けん気を出したのがよくなかったらしい。
あのとき彼女が一瞬困ったような表情をしたのを思い出した。借りを返すどころか、困らせてしまった。
沈黙していると、ひまりは泳がせていた視線を私の目で止めた。
「ごめん、今の嘘」
私は目を見張って、見つめ返していた。
「ふつーに千尋と仲良くなりたいなって、思ったんだよ。あたしのことよく知らない子と、イチから。でも拒否られたら、やだなって思って⋯⋯」
ひまりは一度うつむいて、顔を上げた。
「だから、めっちゃうれしかった」
はにかむように笑った。
夕日と一緒に笑顔を受け止めて、なぜか胸がちくりとした。ちくりという表現は適切ではないかもしれないけど、とにかく胸に違和感を覚えた。
彼女の本心が垣間見えた気がした。あくまで気がした、だけで、実際は余計にわからなくなった。なんて返したら、もっと喜んでくれるのだろうかとか、おかしなことを考えていた。
「ってなわけだから! んじゃ、ばいばい!」
ひまりは照れ隠しをするように手を振って、ペダルを踏んだ。
結局私は、彼女を喜ばせるような言葉をかけられなかった。手を上げて応えるのが精一杯だった。
自転車にまたがったまま、沈む夕日に向かって遠ざかっていく背中を、じっと見つめていた。
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