第3話
そもそもがおかしい。
彼女が教室に来た時点で、すでに授業は始まっていたはず。
左藤ひまりは少しだけ視線を上向けた。
「それは……ちょっと忘れ物しちゃって~⋯⋯」
「忘れ物って?」
間髪入れず尋ねる。
ひまりは無言で見つめ返してきたが、急ににやっと相好を崩した。
「何? そんなに知りたい? あたしのこと気になる~?」
煽るような口調で腰をかがめて、必要以上に顔を近づけてくる。
どうやら話す気はないらしい。ならば赤の他人の私が、必要以上に詮索しても仕方ない。
私は無視して机の中を探った。化学の教科書とノートを引っ張り出す。
教室の時計を見上げると、思いのほか時間は過ぎていた。化学室で行われている授業は、残り半分。
「授業さ、今から行ってももう遅いし……サボっちゃおうか」
左藤ひまりの言うとおり、今から行ったところで欠席扱いになるだろう。
これだけ遅くなると、どうやって途中から授業に入っていったらいいかわからない。遅れた理由が考えつかない。正直に話すのもありえない。
私が迷っていると、ひまりは教室前方の戸口へ近づいていった。閉まった引き戸の前で腰を下ろし、背をもたれる。笑顔でちょいちょい、と手招きしてくる。
「ほら、そこにいると誰か通ったら見つかっちゃうでしょ」
何を今さらだ。
けれど今誰かが廊下を通り過ぎたら、一発で見つかるのは間違いない。
言われるがまま引き戸に近づき、彼女の隣に腰掛ける。
授業をサボるなんて初めてのことで、何をどうすればいいのか勝手がわからなかった。
私は見よう見まねで体育座りをした。
「ちょうど陽が当たっていいよ~ここ」
ひまりが座り直して、少しだけ肩を寄せてくる。首筋に日が差して白く光った。
隠れたところで何があるというわけでもなさそうだった。初対面も同然の相手と、授業をサボって日向ぼっこ。ただひたすらに奇妙な感覚がした。
かたや彼女は慣れた口ぶりで、小首をかしげてくる。
「ね? ここなら死角だから」
「死角……」
「さんかくしかくの四角じゃないよ?」
「それぐらいわかってます」
「刺客! グサー!」
「やめてください」
指先を脇腹に突き立ててきた。すぐ手で振り払う。
すると今度は、じっと人の顔を凝視してきた。無遠慮な視線。いやぶしつけとも言える。負けじと見つめ返す。
「なんですか?」
「髪の毛。きらきら。さらさら」
「はい?」
「目、きれい。まつげ長」
「……さっきからなんでカタコトなんですか?」
「そりゃカタコトにもなるよ」
うらめしげな表情。なんだかよくわからない。
「あのさ、さっきから思ってたんだけど、めっちゃいい匂いするよね。なんのシャンプー使ってるの?」
予想だにせぬ質問が来た。即答する。
「わかりません」
「いやいやわかりませんってことないでしょ」
「うちに置いてあるのを使ってるだけですから」
記憶の映像をたどる。赤い入れ物に横文字。湯気で曇っている。
自分で買ってきているわけでもないし、名称まで覚えていない。
覚えていたとしても正直に教える義理もない。だいたい知ってどうするのか。
「えーなんてやつなんてやつ?」
「だから、覚えてないって言ってますよね」
「じゃあ、あとで写真撮って送って」
「送るって、どうやって?」
「どうやってって……あ、アカウント教えるね」
ひまりは立ち上がって窓際の席に歩いていく。カバンを探って、スマホを手に戻ってきた。画面を触りながら促してくる。
「ほら、そっちも出して」
「スマホって使用禁止ですよね」
「それ建前上ね? みんな使ってるじゃん。ほら出して」
「持ってきてないです」
「え、そうなの? 忘れた? じゃあIDとかわかる?」
「IDっていうか、そういうのやってないです」
「うそぉん」
ひまりは大げさに振り向いて私の顔を見た。
スマホアプリが映った画面を、目の前に差し出してくる。
「あのこれね、メッセージでね、写真とか送れてね? 電話もできてね? 便利なんだよぉ?」
「バカにしてます?」
「まあポリシーというか、なんかそういうのがあるならとやかくは言わないけどさ」
「別に……そういうのやる相手もいないですし」
「あっ……」
ひまりはわざとらしく目を見張ってみせる。
変だ、というのだろう。けれど今に始まったことではない。正直に答えただけだ。
「でもなんかいいかもそういう素直なの。嫌いじゃない。むしろすき」
顔をかたむけて笑みを向けてくる。いちいち動作が大げさだ。
髪が揺れて光の当たる部分が黄金色になる。天然ではきっとこうはならない。薄くメイクもしているようだ。校則違反だと思った。
ひまりはスマホをポケットにねじ込むと、口を押さえて大きくあくびをした。
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