第35話

 頬杖をつきながら黒板を眺めているうちに、チャイムが鳴った。

 これで今日の授業は終わり。教卓の上でテキスト類を揃えながら、先生が言う。


「さっきのとこ、テストにも入れたからな。大サービスヒント。けどま、絶対重要なとこだから」


 え? テストに入れた?

 いま何の話してたっけ。やべえ。全然頭に入ってない。


 テストを目の前にして、かつてないほど憂鬱だ。

 こんなでもちょっと前までは、かなり⋯⋯いやめっちゃ楽しかったのに。

 

 先生が教室を出ていく背中を目で追う。

 ついでに前の入口付近の席に目を留める。


 さらさらの黒髪の一部が、西日に当たってきらきらしている。

 姿勢のいい座り姿。先生がいなくなって周りが騒がしくなっても、一人で黙々とノートに何事か書き込んでいる。


 こうやって彼女を観察するのは、もはや日課⋯⋯いや癖になっていた。

 あくまでバレないように、こっそりと。

 だから彼女が大きな動きをしたり、席を立ち上がったりすると、慌てて目をそむける。

 

 あたしは顔ごと窓の外を向いた。

 視界からは外したはずなのに、彼女の仏頂面が頭に浮かぶ。恥ずかしそうに頬を赤らめた顔。何考えてるかわからない真剣な顔。


 ⋯⋯はぁ。もうやめよう、こういうの。悪い癖だ。

 もううざ絡みとかするのやめようって、決めたばっかなのに。


 それにしても鬱だ。

 親になんでバスケやめたのって言われて、バスケやめて学業に専念するから。とか言ってしまった手前、下手げにテストで悪い点は取れない。

 

 で、最近ずっとこんな調子だから勉強に集中もできない。

 しかたない、先生に聞きに行くか―。でもねちっこいんだよなぁ。ちょいちょいイジってくるし。そういうノリだるいんだよな―。


「はぁ⋯⋯」


 ついため息が漏れると、西日を遮るように、あたしの机に影が落ちた。

 顔を上げると、その憂鬱の原因の一つである彼女――千尋があたしの席の前に立っていた。無言で。


「⋯⋯ど、どしたの?」


 急になんだ。どうした。

 千尋のほうからあたしの席に来るなんてこと、今までなかった。彼女は基本、教室の外と自分の席の往復しかしない。あたしの席の位置を知ってるのか疑わしいぐらいだった。

 

 うれしくなる反面、いやーな予感がした。

 千尋は怖いときの顔をしていた。怖いときっていうか、何やらかすかわからないときの顔。


 黙ってあたしの机を見下ろしていた千尋は、いきなり肘をついていたあたしの腕をのけた。

 あ、となる前に、千尋の顔が机に近づく。

 千尋の目は机の表面をじっと見つめていた。しばらくそうやって固まった後、顔を上げて、あたしを見た。机を指さす。


「これは? なに?」


 千尋の手が指さしていたのは、机の落書きだった。

 言われて思い出した。そういえばそんなのあったっけと。


 落書きのこと、すっかり忘れてた。まあ完全に忘れてたわけじゃないけど、もうどーでもよくなってた。

 あたしはけろりとした顔で答える。

  

「ただの落書きだけど? どしたの、そんな怖い顔で」

「咲希さんから聞いたの」


 咲希か。

 んーなるほど。


 あいつなんか知ってるんだろうな、とは思ってたけど。なんでこのタイミングでどうして千尋にゲロったんだか。てか、人のいないとこでなに勝手に盛り上がってるんだか。

 

「困ってるなら、相談してほしい」


 千尋は思いもかけないことを言った。

 いつものですます口調じゃなかった。本当はこうやってしゃべるんだと思った。


「いや、別に困ってなんて⋯⋯」

「ありがた迷惑ですか?」

「え?」

「ひまりが迷惑だとしても、私がやりたくて、やることなので。私が迷惑をかけるということで今回は私の借りで、ひまりの貸しにしておいてください」


 借りとか貸しとか、なに言ってるのこの子。

 相変わらず急に意味わからない。けれど引きそうにない。頑固モードに入ってる。

 

 咲希となにをどう話したのかしらないけど、こうなったらテコでも動かなそう。もうしらを切ってもムダか。ならそれらしく言おう。


「相談もなにもないよ。もう終わったことだから」

「終わった?」

「今だから言うけどさ。あたし、これ消すために授業サボった。そのときに千尋にあった」


 あのとき、「本当は何しに来たんですか?」って聞かれて、なんて答えるか迷った。

 なんの因果か偶然か、落書きを消しに来た者同士、お互い通じ会えるかもと思って。いっそ話してみるのもありかなって。


 でも本当のことをいうのはないでしょ、ふつーに。

 千尋とあたしのでは、同じ落書きでも全然性質が違う。

  

「私がいたせいで、消せなかったってことですか?」

「ちがうちがう。その気になればそのあといつでも消せたし。ちょっと考えたんだけどさ、これ、消してまたなんか書かれたらショックじゃん? だからさ、『はい。そのとおりです。反省してます』っていうポーズね。もうオーバーキルしないでって意味も込めて」


 放課後の教室は騒がしかった。

 あたしがちょい真面目な話をしているのもおかまいなし。アホそうな笑い声とか聞こえてくる。

 でもおかげで会話は埋もれていた。誰かに聞かれることもない。


「それに変に反応すると、あ、コイツ効いてるんだ、ってなって、またやりたくなるみたいな。アンチに反応するとさらに喜んじゃうみたいな感じで。だからもう完全無視がいいかなって」


 いざとなると意外に言葉がスラスラ出てきた。

 最初はてきとーにごまかそうと思ったんだけど、普通に話してた。

 

「でもそれ、気になりますよね?」


 千尋がすかさず出口を塞いでくる。

 経験者は語る、というやつらしい。 


「うん。でもなんかもう、いろいろどうでもよくなってた」

「なぜ?」

「千尋と出会ったから」


 結局全部正直に言っちゃったよ。

 取り調べ官みたいだった千尋の尋問が急に止まった。思いもよらないことを言われて戸惑っているみたいだった。

  

「とりあえず、机交換しましょう」


 そう言うと、千尋は周りのこともおかまいなしに、勝手に机の中身を取り出しはじめた。テキスト類を隣の机の上に積んでいって中を空にすると、机の両端を持って持ち上げた。


 そんなことしたらさすがにみんなの目を引く。「え、なに?」みたいな、ちょっとどよっとした声がする。

 でも千尋は気にもとめず涼しい顔で、机を持ったまま廊下に出ていってしまった。

 

「ちょ、ちょっと千尋!」


 あっけにとられていたあたしは、慌てて千尋の後を追う。廊下に出て曲がってすぐの渡り廊下で追いつく。

    

「千尋いいってば、それ、べつに⋯⋯」

「ひまりがよくても、私が気に入らないんで」

「じゃあいいよ、あたし一人でやるから。ね?」


 無視。

 千尋の机を交換したときは、こっちが運ぶの手伝うって言ってるのに、なんでこの子は嫌がってるんだろう。

 とか思った。でも今は、その気持ちがよくわかる。


「だーかーら、いいって!」


 あたしは負けじと机の反対側に取り付いた。奪い取ろうとして机がガタガタ揺れた。千尋が不満そうな顔をする。

 

「なんですか、邪魔しないでください」

「いえ、一人で大丈夫です。一人で持っていくので!」


 あたしはあのときの千尋の口真似をした。少し遅れて千尋はあたしの猿真似に気づいたみたいで、ちょっと顔を赤らめた。それからわざとらしく怒ったような顔をした。

 

 あたしは机の半分を持って運びながら笑った。そしたら千尋も笑ってくれた。なんだかいろいろ吹っ切れたみたいに、楽しくなっていた。

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