第34話

 少しすると更衣室には人がいなくなった。

 最後の二人組が何事か話しながらドアを出ていくタイミングで、聖奈は眺めていた手鏡をしまった。まんなかの長椅子に座っていた私の隣に腰掛けてくる。近い。私は腰をずらして座り直す。聖奈がおかしそうに笑った。


「うふふ、なんか警戒してる? 大丈夫だって、取って食ったりしないから」


 聖奈は椅子の上に手をついて、体を傾けてきた。

 

「あのさ、武内さん、最近ひまりと仲いいよね? ひまりわたしの悪口とか、言ってない?」


 微笑みながら首を傾げてくる。

 わざわざ呼び止めるようなことをするから何かと思えば、そんな話か。


「言ってないですよ」

「へえ、本当~?」

「なにか悪口を言われるようなこと、したんですか?」

「ん、べつにそういうわけじゃ、ないけど⋯⋯」

 

 聖奈の表情に少し陰りが見えた。けれど一瞬のことだ。


「それでさ、ひまりのことなんだけど。部活のこととか、なにか言ってなかった?」

「部活のこと?」

「バスケ部のこと」

「いえ特に、なにも⋯⋯」

「本当?」


 いちいち目を見ながら念を押してくる。じっと動かない黒目が少し不気味だった。

 まるで私の頭の中を見透かそうとしているかのようだった。


「たとえば、ほら。バスケ部に戻りたいとか」

「そんなことは言ってませんでしたけど」

「どういう理由でやめたとか」

「だから、知らないです。そういう話はしてません」


 やめた理由どころか、ひまりの口からバスケ部だった、とはっきり言われたかどうかも曖昧だ。

 私が周りの会話や自分の推測から、勝手に情報をつなぎ合わせただけ。ひまりはその話題を、あえて避けているようにも見える。

 

「ひまり部活やめても、どうせふらふらしてるだけみたいだし。わたしはひまりにバスケ部に戻ってきてほしくて⋯⋯。武内さんからも、話してみてくれない?」

「それは私じゃなくて、直接彼女と話したらいいんじゃないですか?」


 私を間に挟む意味がわからない。

 そもそも私は蚊帳の外だと言っているのに、はなから信じてないような口ぶりだ。彼女は私と話をしているようで、一方的に自分の言いたいことを押し付けているだけに見えた。

  

「話はそれだけですか? それじゃ⋯⋯」


 私は長椅子を立ち上がった。

 そのまま部屋を出ていこうとすると、いきなり手首を掴まれた。


「痛っ……」


 私の腕を掴みながら、聖奈は立ち上がった。

 立ち止まって振り返ると、聖奈は手首を握った手を緩めて、放した。 

  

「ごめん。今の、聞かなかったことにして」

「⋯⋯どういうことですか?」

「だって部活のこと、なにも聞いてないって⋯⋯二人はその程度の仲なんだって思って。なら、なに話しても無駄だって思って」


 聖奈は笑っていた。いつもの微笑を浮かべていた。

 

「あ、ちなみにバスケ部どうってさっき言ったのは、冗談だから。あなたみたいな協調性のない人は、いらない。勘違いしないでね」


 声だけは別人のように冷たくなった。


「なにも知らないみたいだから教えてあげるけど⋯⋯ひまりは私に相談もなしに、退部届を出したの。勉強とか、いろいろ大変だからって⋯⋯。でもひまりは、本当にバスケが好きなの。そんな理由でやめるわけない」


 聖奈の顔から笑みが消えた。視線を落として、椅子の角を睨みつけた。


「それは勝手な決めつけじゃないですか? ちゃんと本人と⋯⋯」

「どうして? 武内さんにひまりのなにがわかるの? 何の話もされてないのに」


 刺すような視線が私の顔に向いた。


「それか武内さんが、ひまりになにか吹き込んだんじゃないの?」

「私が?」

「ひまりが、急に武内さんと一緒にいるようになったから」

「だから決めつけで話すのはやめたほうがいいと思いますけど。それだとさっきの話と矛盾してないですか?」

「一応、あなたがまるまる嘘をついてる可能性もあるから。じゃあひとつ聞くけど、ひまりとは、いつから知り合いだったの?」 

「いつからもなにも⋯⋯つい最近です。それまでは、」

「わたし、ひまりのことが好きなの」


 私の返答は途中で遮られた。私に尋ねるふりをして、彼女はまた自分のことを話しだした。


「たぶん、一目惚れみたいなものだった。もともと中学は別で、そのときはお互い敵同士だったけど⋯⋯あの子は、すごく輝いて見えた。初めて練習試合のときにマッチアップして、上手だね、なんて声かけられて。それから試合の時なんかにもちょくちょく顔を合わせて⋯⋯そしたら高校で偶然同じ学校になって、同じバスケ部に入って、仲良くなって。わたしも前は今みたいじゃなくて⋯⋯もっと地味で根暗だったの。でも、なんとかひまりに並べるようにって、いろいろ頑張って⋯⋯」


 聖奈は覚えかけの古文でもそらんじるように、目をあちこちさまよわせながら言った。けれど最後に私を向いた瞳はまっすぐ、微動だにしなかった。 

 

「でもあなたには、そういうの、なにもないでしょ?」


 私と彼女の間に、そんな長々としたストーリーはない。 

 知り合ってから、まだ日も浅く時間だって短い。お互い知らないこともたくさんある。


 けれど私がこれまで友人と呼んでいた子たちの誰よりも、いっぱい話をした。

 いつしか彼女の笑顔が頭に住み着くようになって、勉強そっちのけで彼女のことを考えるようになって。

 

「だから、もうひまりと仲良くするの、やめてくれない?」

 

 そんな自分の中にしかない些細な変化を、反論に使うことはできなかった。

 それにわざわざ言われるまでもなく、これからきっと、そうなる。ひまりとはだんだんと疎遠に⋯⋯その他大勢の一人になるだけ。

 

 それを良しとしている私と、どこかひっかかりのある私がいる。

 私は⋯⋯なんなんだろう。ひまりのことを、どう思っているんだろう。どうしたいというのだろう。




 先に更衣室を出ていったのは聖奈だった。

 きっともう、すべて言いたいことを言い切ったのだろう。彼女は最初から私に用があったわけじゃない。話が終われば、一秒たりとも一緒にいる理由はないらしい。


 廊下はもうすっかり昼休みだった。近くに人影はなかったが、学校の喧騒が遠くに聞こえる。

 私が更衣室を出たときには、聖奈の姿は見えなかった。すぐ手前の階段を上がったのかもしれない。


 私はなんとなくそちらは選ばずに、奥の階段から上がることにした。

 回れ右をして、廊下を歩き始めた。そのとき背後にかすかに視線を感じて、すばやく振り返る。

 

 小さい影が階段への曲がり角から頭をのぞかせて、こちらを見ていた。

 目が合うなり、相手はさっと体を引っ込めた。私はすぐさま廊下を蹴って走り出した。


 角を曲がると、階段を駆け上がっていくスカートの後ろ姿を見つけた。

 あとを追いかけて、二段飛ばしに上がっていく。


 二階、三階と足音が登っていく。すばしこい身のこなしだったが、私も負けていない。

 四階で影は一瞬迷ったようだが、さらに上に登った。その先にあるのは屋上へ続く扉だけだ。ドアは施錠されて屋上には出られなくなっている。行き止まりだ。

 

「なにか用ですか?」


 屋上に続く手前の踊り場で、小花咲希は逃げるのをあきらめた。

 彼女は壁を背に、声をかけた私を見上げてくる。なにか恐ろしいものでも見るような目だ。軽く息を切らしながら、小さな声で言った。


「⋯⋯な、なに? アタシが、なにかした?」

「なんで逃げたんです?」

「だ、だって、怖い顔で追ってくるから⋯⋯」

「だってヤバイって顔で逃げるから」


「なにか用ですか?」は前々から聞いてみたかったセリフだ。

 少し前からことあるごとに、何者かの視線を感じていた。どうやら彼女のものだったらしい。

 もしかすると先ほどの更衣室での話も、盗み聞きされていたのかもしれない。

 

「私になにか、言いたいことでもあるんですか?」

「べっ、べつに、なにも⋯⋯」

「ならチョロチョロ付け回すの、やめてもらえます?」

 

 小花咲希は口をつぐんでうつむいた。

 今の反応でらしい、かもしれない、が確信に変わった。

 

 それこそ刃物でも突きつけて、洗いざらいしゃべらせたかった。けれどさすがに彫刻刀は持っていない。そのかわり私は刃物のような視線を彼女に向けた。


「話、ありますよね? いい機会だし、話しましょうか」

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