第8話

 授業が終わると、誰と言葉をかわすこともなく私は教室をあとにした。一人廊下を行く足取りは重かった。


 私が見る限り、左藤ひまりは特に問題という問題を抱えているようには見えなかった。それどころか順風満帆。友人も多く、クラスメイトとの関係も良好のようだ。

 

 そんな彼女に対し借りを返すとは、具体的に一体何を、どうやって?

 仮に何か問題があったとして、私にできることなんてたかが知れている。

 

 もしかすると彼女は、私よりもずっと上の、別の次元にいるのかもしれない。そう思うと、劣等感のようなものを感じずにはいられなかった。


 駐輪場へやってくる。自分の自転車に取り付き、鍵を取り外す。

 ハンドルを握って引き出そうとすると、不意に何者かに脇腹をつつかれた。


「ひゃっ」


 変な声が漏れて、背筋が伸びる。何事かと振り返る。


「んふふ、今かわいい声出たね。油断してた?」


 左藤ひまりだった。うれしそうに笑っている。なにがおかしいのか。

 またも頬がかっと熱くなるのを感じる。いやこれは頭に血が上っているのだ。私は無言でひまりを睨みつけた。しかし向こうは全く意に介していないようで、


「もう帰り? 早いね」


 ひまりは自転車の鍵を取り出しながら言う。

 彼女の自転車はすぐ近くに止まっていた。カゴにカバンを入れて、ハンドルを手前に引き出す。なぜか急いでいるようだった。

 ひまりはサドルにまたがると、

 

「あ、そうだ。ねえちょっと駅前行かない? 一緒に」

 

 突然誘いかけてきた。

 昼休み放課後にカラオケに行くという話をしていたはずだが、それはどうなったのか。


「ああ、カラオケ? ちょっと急用が! って言って逃げてきた」


 ひまりは私の表情を読んで答えた。

 誘いを断るのは簡単だったが、それだとなんだか負けた気がする。逃げた気がする。

 ここは受けて立ってやろう。考え方を変えれば、間近で彼女を観察する絶好のチャンスだ。

 

「……いいですけど」

「えっ、まじ? ほんと?」

「本当です」

「え、まじに本気で? 絶対断ると思った」


 ひまりは一瞬困ったような、驚いた顔をした。裏をかいてやって、私は少しだけ気分がよくなった。 


 それぞれ自転車に乗って、校門を出た。道がひらけてくると、ひまりは並走して話しかけてくる。授業が眠かったとか、明日の体育がどうとか、無理に話すことでもない内容。


 十五分ほどで駅前に到着した。駐輪場でタイヤに鍵を取り付けたひまりは、一度周りを見渡した。なぜか少し迷っているようだった。


「んーまずは向こうかな」


 通りをぐるりと回って、駅の中の百貨店に入っていく。私はひまりの後を黙ってついていく。何回かエスカレーターを上がってやってきたのは、ファンシーな雑貨屋。


 ひまりはまっすぐ文房具の置いてあるコーナーに向かった。棚の前で立ち止まり、難しい顔をしている。私は尋ねる。


「何を探してるんですか?」

「筆箱汚れちゃってさ。もう新しいの買おうと思って。べつに安いのでいいかな~⋯⋯」


 ひまりはぶらさがったペンケースを手にとっては、値札を目ざとくチェックしている。迷っているようだった。 

 

 一緒になって棚を眺めていると、一つだけ50%OFFの値札の付いたペンケースを見つけた。ピンクのシンプルなデザイン。他のものと比べても、特段見劣りはしない。


 足元には在庫限り特別セール品と書かれたかごが置いてあった。中はこまごまとしたペンやら消しゴムぐらいしか残っていない。もしかするとこのペンケースは誰かが一度手にとって、カゴではなく棚に戻したのだろうか。


「これ、どうですか。半額みたいですけど」

「え、これ半額? まじ? いいじゃん! 全然いい感じじゃん!」


 ひまりは嬉々として私の差し出したペンケースを手に取る。

 そのままレジに持っていった。お会計をして戻ってくる。


「へへ、思ったより安くすんだ。ありがとね」


 笑顔で礼を言われて、私は反応に困った。

 この場合なんと返すべきなのか。どういたしまして? 気にしないで? 


 これでこの前の借りはチャラですね、なんて言えるはずもない。この程度では。

 結局私は、曖昧に頷いただけだった。

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