第35話 Good bye 6
記憶はないけど、と前置きして話し始めた。
「エルムクリーグの南西の森の奥にあるトートの木の下で私は泣いてたらしいの。これも養母からの又聞き。もしかしたらあの女からひり出された可能性だってあるわ。自慢じゃないけど性格の悪さはどっこいだから」
そう語って私は一口ワインを飲んだ。ワインといっても発酵はしてない。硬水の多いこの地方の水の代わり。だから13歳の私にだってガブガブ飲める。それ以上に酒場でエールを嗜んでいたりもした。最初にエールを飲んだのは何歳だっけ、多分10を超えたぐらい。オレンジの照明が柔らかい酒場のカウンターで、泣きじゃくる私にエールを差し出した女衒のローリーを思い出す。あの夜は雨が降ってた。でも今聞こえるのは遠くに聞こえる滝の音と虫の鳴き声、夜、そしてフクロウの笑い声。
「そんなに酷かったのか」
と私に言ったのはバロン。私が答える前に、アレックスが顔の前で手を振って答えた。
「典型的な農家だったな。金もないし学もない。おまけに誇りも売りさばいたようだ。そこに仕事を肩代わりする子供が振ってわいたんだ。飛びつくさ。酷い有様だったよ、それが今じゃ立派なレディだ」
そう言ったアレックスもサクラマスを一切れ切って口の中に放り込んだ。カトラリーが豆電球の光を受けて虹色に輝いている。モノがいいのか、それとも例のドリームキャッチャーの効果なのか、食事は随分と高級で上等に見えた。ワインで洗った口の中にサクラマスを突っ込む。美味しい。おかげで私の舌もくるくると回った。自分の記憶を思い出しながらそれを大きく彼らに伝える。伝えたくない事はなるべく小さくして隠す。
「そうね、ただの労働力だった。服は一枚だけだったし、それをずっと洗い回して使ってた。でも飢えなかったのは多分男達のおかげね。何かと私に奢りたがったし話したがった。詐欺師のロッチや酒場のローリーも……、嫌いだったけど世話にはなったわ。でも話してて一番面白かったのは浮浪者のベントン。寝ながら100万稼ぐ話や、宇宙の成り立ちやら。時間を伸ばす方法とかも教えてくれたわ。馬鹿馬鹿しくて好きだった」
ベントンの話をしたら少し気分が上向きになった。彼の冗談はいつも面白いから。養父に殴られた日も、養母につねられた日も、それをそれとして受け流す方法を彼は教えてくれた。そうしたら私の話のこしを折って、アレックスがベントンについて話し始める。
「ヘイ、バロン。このベントン、誰だと思う?あの、ベントンだ。ベントン・フェルマー」
バロンとトニーが目をまんまるにしてフリーズした。直後、大声を上げてバロンは立ち上がり、トニーは身を乗り出してアレックスを見た。椅子から立ち上がったバロンは驚きと喜びで今にも跳ね出しそう。子供みたいな彼とイタズラの成功を喜ぶこれまた子供みたいなアレックスを見返して、私はこっそり椅子の背もたれに体を押し付けた。
「マジかよ!失踪してから何年だ?!」
「なんてこった!こんなところにいたのか!」
「俺もまさかと思ったよ、見る影もなかったが、やはり天才はどうあっても天才だな。学会への復職を勧めたが断られた。今の生活が気ままでいいらしい」
唯一ベントンに会ったであろうアレックスが笑いながら首を振って、今度はパンに手を伸ばしてる。トニーは声を上げて笑い出して、バロンは頭を掻きむしり、興奮に身悶えてる。
「数学界のスターだぞ!ちくしょう、この家から出れたら一番最初に会いに行ってやる!ベントン・パズルは俺のお気に入りなんだ!」
ヤーヤー、と笑いながら頷いたトニーが今度は私とバロンに視線を寄せた。そしてこんな事を言った。
「それでか。年に合わない会話をすると思った。ベントンの薫陶を受ければさもありなん、だ」
興奮冷めやらぬまま、椅子に巨体を押し込んでバロンが私を指差す。指の先を上下させるのは彼の癖なんだろう。
「羨ましいぜ、ローズ!数学を齧った人間の夢だ、ベントンとプライベートを過ごせるなんてな」
バロンの言葉にちょっとした優越感を感じたから、鼻を鳴らして少し胸を張った。そして頭の中にある自分の記憶と対峙する。優越感は途端に萎んで養父の汚い顔になり変わる。そんな凄い人と話をしてたって、結局私は拾われっ子。
「まあでも、アレックスが来るまで売られる寸前だったわ。酒場のローリーは17歳で店に来いってしつこかったし、家じゃ養父が5歳の私に欲情するしね」
明るい表情でサクラマスに齧り付こうとしてたトニーが、私の話を聞いた瞬間真顔になった。怒りを含んだ大きなため息をついてその動作を中断した。
「ありえない。銃殺したっていいレベルだ」
対してバロンは意地悪い笑顔。皮肉げに口の端を上げて、サクラマスに齧り付いた。
「一人の有能なレディの未来がこれで確約されたわけだ。善行を積んだぜ?俺達は」
そしてアレックスは現実的。さっきより随分と冷めた目をしてる。これが彼らの多分、怒りの表情なんだわ。
「裁判の際は俺を呼んでくれ、ローズ。君の暮らしぶりについてはこの目で見た。神に誓って真実を証言するよ」
アレックスの本気の冗談を笑いながら、私は続ける。
「裁判なんて。あいつらに複雑な事が理解できるわけないわ。それよりアレックス、貴方あいつらに幾ら渡したの?そっちの方が重要だわ。私の存在があいつらの利益になるなんて死んでも嫌」
小さな豆電球の光を何倍にも増幅させたドリームキャッチャーの光の下で、彼は深く目を閉じて微笑んだわ。そして言ったの。
「一千万」
息を止めて目を開いた。そんな大金!そう発言しようとしたら、左側から心底愉快そうな意地悪な笑い声が聞こえてくる。バロンだった。
「酷い奴だ、これで終わったな」
笑いながらパンに齧り付く彼の横顔を見る。口元にパンの欠片がくっついてたから取ってやりたくなった。開いた口を閉じて二人の顔を右に左に見合わせた。
「大金は人生を狂わす、特に使い慣れていない場合は。もって一年だな。一年の幸運期を経て家庭は崩壊するだろう。君の復讐は意図せず行われる」
よくわからなかったから口を結んだ。会話をしててなんとなくだけど、彼らを信用し始めてた。アレックスの言うこともバロンが何故笑ったのかも私には理解できなかったけど、多分彼らの方が正しい。口を突き出して、少し考えて「そう」とだけ発言した。私の発言を皮切りにして、またバロンが私に問いかける。最初は「それで」一口ワインを煽って彼はその綺麗な青い瞳を私に向ける。深くて暗い青、笑っている時は澄んでいるのに、今は水の底みたいな色をしてる。
「トートの木の下に捨てられてた、それだけか?よく見る夢やら、幻覚やら……。なんでもいい、話してくれ。急かすようで悪いが俺達も切羽詰まってる」
手を振りながらバロンが言った。彼のドライな態度は多分、焦りの裏返しだ。言える事はある気がする。でも言いたくない。それは私の傷、私の柔らかい場所。彼らの事情がわからないわけではないけれど、そこには私の事情が考慮されてない。沈黙したまま流した視線の右側から、静かなアレックスの助け舟が着いた。
「2年だ。バイロンの死からもう4年だな」
バイロン、という名前を聞いた食卓は悲しみに沈んだ。バロンは遠くを眺めて、トニーは頭を抱えた。ただ静かな追悼の音律でアレックスだけが語り続ける。
「最初にこの症状、呪いを受け取ったのは恐らく、バイロン・クーパー。我々の共通の友人だ。素晴らしい人間だった。人間性もさることながら見事なバイオリンの技術も備えていた。あの時の彼の微かな変化に気づいていればもしかして彼はまだ生きていたかもしれない。……我々は友人を救えなかったんだよ。ローズ」
続けたのはバロン、なんだか口調が少し硬い。バイロンという人は彼の傷なんだろうとそこでわかった。傷は人の目に晒すもんじゃないわよね、私だってそう。
「あいつの最期を見たのは俺だ。自分で自分の首を切り落とした。そこから……。そこからあいつが見ていたものと同じものが見えてる。終わらない悪夢だ。骨壷と草原。星とニガヨモギ。眠れないしモノは食えない、他人は化け物に見えちまう。俺は、あいつを殺した何かが憎い。俺たちをこんな場所に閉じ込めている何かが憎い。こいつは俺たちのリベンジなんだ、ローズ」
星とニガヨモギ。フレーズを聞いて揺れた自分の心を悟られない様に私は表情を固める。私を見据えていうバロンが私は少し怖かった。彼の目と言葉には憎悪がある。憎しみは知ってる、それは私の中にある。でも私が憎しみに塗れなかったのは、ママのおかげ。今じゃそのママの声も聞こえない。星とニガヨモギ、言うべきはこのフレーズだ。でもそれは、ママの事を言わなきゃならなくなる。沈黙する私に優しく語りかけたのはトニー。彼ってば多分何処までも紳士なんだわ。紳士で純粋で子供みたい。この三人の中じゃ私はトニーとの会話が一番安心できる。
「……言い忘れていたが、ローズ。もし俺たちの食事を用意してくれる事があれば、俺に肉は出さないでくれ。憲兵の役職に居たから、当時の捜査資料を見れた。……バイロンは自分の妻の肉を食ってたんだ。それから肉を食えなくなった」
喉が詰まって絞り出せたのは「酷い事件だったのね」って一言だけ。三人はそれぞれ悲しみを紛らわす様に少し体を揺らした。彼らの状況と話を聞いて私は初めての感情に慄いてる。私に何ができるだろう、そう思っている。私の言えない事が彼らの状況を変えるならそれでもいい、と思い始めている。だってそれだけの事をしてもらった。ただ、胸の奥の恐怖が消えないの、それは彼らからの印象を憂えたものじゃない。そうかもしれない、と思っている事が確定してしまう、そっちの方が恐怖なのよ、ママ。私の逡巡を見ない様にしてトニーが続ける。踏み込もうとしないのは、全部が彼らの優しさなんだって今気づいた。
「バイロンの事件の後、バロンの次に呪われたのが俺だ。正確には娘だ。3歳になる。……ある時から外に出る事を嫌がる様になり、俺の顔を見ると泣き叫ぶ様になった。妻はモノを食べられなくなった。俺がそばにいる時だけな。だから今は彼女達と距離を取ってる。本当は会いたいよ、家に帰りたい」
サクラマスが冷めて、バターが表面で白く固まってる。その様を見ながら、口を開こうとしたの。あのね、私は。言いかけた私を遮って、アレックスが話し始めた。まるでダメ押し。彼の言葉で私は決めた。一億のお礼は、私の人生の半分を切って彼らに与える事。
「最後に呪いの影響を受け始めたのが俺だ。だからまあ遠出もできるし、君にもベントンにも会えた。俺の場合も、近しい人物だった。親の決めた相手だったし、感情もなかったが、婚約者が居たんだ。二人で出席したパーティーの途中、俺の顔を見た瞬間走り出してベランダから飛び降りた。即死だったよ。俺に関わらなければ生きられただろうに。……可哀想な事をした」
アレックスが語り終わって、私は無言で席を立った。歩き出した私の背中に、バロンの心配そうな声がかかる。ローズ?決めたの。私は決めた。言わなきゃいけないの。これは私の問題だわ、ママ。バロンが用意してくれた自室に入って、魔術医から渡された資料を手に取る。君は本来、生まれていなかったんだよ。そうね、それもママに聞いた。資料の束を手にして、食堂に戻ってアレックスに渡した。
「……字が、読めないから、なんて書いてあるかわからない。でもここに来る前に私を検査した魔術医がまとめてくれた資料よ」
食事の手を止めて、アレックスが資料をめくる。そして私をまっすぐに見て、静かな決意の微笑みをした。資料を読みながら、アレックスはやっぱりアレックスであろうとする。それも私の安心を刺激する。
「字が読めないならバロンに教わるといい。どうせ家から出られないんだ。役割は二つ以上持て、人生が安定する」
手を開いたバロンが大きな声で、カモーン!と叫ぶ。悲しかった食堂が、彼の軽薄さで明るくなる。悲しい事をそのまま悲しく受け取ると心が壊れてしまう。だから悲しみを見ない様にするか、軽薄にそれを突っぱねるの。そうすれば生きられる。そうすれば心を守っていられる。
「俺が教師なんて出来ると思うか?ガラじゃない」
資料を読み込み始めたアレックスがモノクルを光らせて彼に反論した。
「お前は少し女性のバストへの耐性を身につけろ。教師を演じて免疫を持て。……それとも無理か?」
呆気に取られたバロンが一瞬の沈黙の後、低い声で「やってやるよこのやろう」と啖呵を切った。そこで私も笑った。食事の席はやっぱり笑顔がなくちゃいけないわ。
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