第18話 summer end 8
エーヴァ像崩落事件から半年が経った。
バロンは今期2回目の謹慎処分を受けた。二週間の自宅蟄居と、取得した単位の剥奪だ。つまり彼は、再度スプリングデス、そして秋に行われる『オータムヘル』の試験期間をパスし、単位を再取得しなければならない。自宅謹慎から三ヶ月、必死で単位の再取得と、進級の為の単位取得を目指しひたすら勉学に取り組んだ。
事件から三ヶ月の間、ほぼアレックス、バイロンやトニーとも連絡を取らなかった。取れなかった、という方が正しい。日中は朝8時から夕方6時過ぎまでみっちりと講義が詰まっており、夜間と休日は逃した単位の試験対策に追われた。
生活が落ち着き始めたのが年も明けた五月、進級に必要な単位も再取得し、三年へと進級したバロンには、卒業の為に通らねばならない試練があった。論文制作だ。テーマを決め、資料を集め取材を行い、卒業資格の認められる論文を書く。論文作成の為の日々は、毎日が研究だ。食事もトイレもシャワーの時間も、勿論誰かと外食をしている時間ですら休息ではない。頭の隅に常に研究を置く生活を始めた、ある日の事だった。
自室の呼び出しベルが鳴って、管理人のサミュエルが電話口で暗い声を出した。
『バロン・クラウド。連絡が入っている。一階の連絡室まで来たまえ』
フラットにした製図台の上で資料と向き合っていたバロンは訝しげに時計を確認する。夜8時だ。釈然としないものを抱えながら、OKと答え、自室を出て連絡室に赴く。警戒しながら電話口に話しかける。返ってきたのはアレックスの変わらない声だった。
『よう、ガリ勉。何してる』
口の端を引いて少し黙った。考えて返す。
「お前と同じ事だ。お前も論文でおかしくなってるだろ」
ハ!と吐きつけて笑う声が聞こえてくる。だから口角がゆっくりと上がる。
『同じだと?冗談じゃない。俺の状況を教えてやろうか?囚人と大して変わらんぞ、なんならサンダークリフに収容されている重犯罪者より酷い生活をしてる。まるで巌窟王だ』
「バニッシュの詩でも暗誦してみろよ、罪が軽くなるかもしれん」
『生憎こちらの刑務官殿はそちらの文化に盲目だ。必要なのは目の覚めるような成果と実績、バカを騙すのは骨が折れる。バカだから常識が通じない』
互いに笑い合った次の瞬間、アレックスの声が低く静かになった。
『ところでバロン、お前、バイロンと連絡をとってないか。或いは、取れないか』
眉を顰めて聞き返す。
「俺よりお前の方が動向には詳しいだろ。定期演奏会はどうしたんだ」
聞き返されたアレックスが口ごもりながら弁解する。
『去年の冬までは俺が主催で開催してたんだがな。論文と授業で中々時間が取れなくなったから、経営科の人間に管理を任せたんだ。それから一度も演奏会に現れてない』
「一度も?」
『そう、一度もだ。内情を知って経営科の人間を問い詰めたら、何度言っても取り合ってくれなかった、と文句を言われた。カノーネの件があっただろう?バイロンの様子がおかしいのもあって、少し静観する事に決めたらしいんだ。久々に連絡を取ろうとしたら、寄宿舎から引っ越して行方がわからない。お前ならなにか知ってるかと思ったんだが……』
「いや、何も知らない。俺も暫く連絡を取っていなかったから……」
『マリアって女と婚約したと聞いたから、声楽関係の女生徒にも連絡した。二人とも暫く授業に出ていないそうだ』
マリア。自分が引っ掛けようとしたあの美女だ。悪い考えがふと頭をよぎった。もしかして影響されてしまったのか?だが彼女は、少なくともそういった関係を持つような女には見えなかった。衣類は美しかったし、肌も健康だった。ジャングル(乾燥大麻)の欠片なんて何処にも見えなかった。
『それと』
沈黙の隙を縫って、アレックスが発言する。何かしらの緊急性を帯びている緊迫した声色だった。
『お前、ニガヨモギについて何か知ってるか』
電話を手に頭を抱えて記憶を辿る。バイロンとニガヨモギ、何一つ結びつかない。一つだけあるのは酒場での記憶。アブサンを彼に飲ませた時、薬草の青臭さに辟易したバイロンが二度と飲みたくない、と笑った思い出だけ。
「アブサンの事か?それ以上思い出せないよ」
『いや、バイロンに出演依頼をした経営科の人間が、話にならなかった、と言ってるんだ。ひたすら、星の名前はニガヨモギだ、とか青い草原に骨壷が並んでいる、なんて呟くばかりだった、と』
アレックスの話を聞きながら、バロンはついさっき沸いた疑念が徐々に固まる不安を覚えている。音楽家にはよくある話だ、そしてこれはかなり悪いところまで来ているぞ、という予感。
「……ジャングルは……」
全ての可能性のうちで最も悲惨な物を挙げた。
『ない。俺は名前さえ聞けば何処で売ってるどんな効果の薬物か一発で判断できる。そもそもロックウッドにはジャンク品は入ってきてないし、出回ってる薬物なら俺はほぼやってる。ニガヨモギなんてものはない。関連するツジュン、それから音大付近で流行っているゴッホも薬効が違う。パラノイアを発現させるヘロイン系の薬物はこの街にはない』
安堵が浮上する。けれどもまだ、不安の石は彼らの中に重く沈んだままだ。
沈黙の内に沈んだ不安を切るように、アレックスが言った。
『……俺のミスだ。経営を渡すような真似をするんじゃなかった。あいつの繊細さには気付いていたのに……』
「まだ大丈夫だよ、兄弟」
自分に言い聞かせるように言った。そう、大丈夫だ。必ず取り戻せる。それだけの時間を自分達は積んである。
「見つけたらお前に連絡するようにいうよ。俺も探してみる。大丈夫さ、俺達は大失敗した仲じゃないか」
アレックスには似つかわしくない、弱々しい笑いが電話口から聞こえた。
『……そうだな、兄弟。信じよう、信じるよ。幸福を信じるのは意志だからな』
「そうさ、幸福は意志だ」
幸福は意志だ、そう告げて連絡を閉じたのに、彼らの中には、バロンの中には重いものが沈み込んで離れない。自室に帰って、フラットな製図台の上に並べられた資料と辞書、そして書きかけの論文を見ても、何かをしようという気にはなれなかった。窓ガラスから夜に沈むロックウッドの街を眺める。雨が降っている。いてもたってもいられなかった。上着を引っ掴んで自室を飛び出す。向かう先など決めていなかった。ただ彼が思いついたのはバイロンと共に過ごした思い出の場所。いるかもしれない、という希望だけを頼りに彼はずぶ濡れになりながら夜のロックウッドを駆け回る。
音大前の野外ステージに来た。そこには雨ばかりが降っていた。それから四人で昼食を取ったカフェ『サルバンガス』は既に閉店していた。彼がバイオリンを弾いた場所には全て足を運んだ。学生街通りのモニュメント、ミュシャ像の前、四人で行ったウェルマート、二人で行った映画館、オペラハウス、怪我をしたトニーを見舞った病院、乱闘をした本屋前。その全てに暗い雨だけが降りかかっており、彼の姿は見られなかった。
記憶の中にだけバイロンが居る。その天才的な技術を持って繊細に微笑む彼がいる。けれど、現実には全てを覆い隠す闇と雨がただそこにあるばかりだ。振り続ける雨を顔面で受け止めながら、冷える体を覆いもせず、バロンは走る。息は上がり、白くなる。
膝に手を当て息を整える。既に衣類はずぶ濡れで肌に張り付いている。けれど諦めきれない。バイロンの笑顔、あのバイオリン、彼の人生、全てを見てバロンは思う。あいつは祝福されるべき人間だ。認められなきゃいけない、そう信じる。そしてふと思い出した。初めて彼と会った場所、そして自分が働いていた場所。考えたらバイロンは、バロンがそこにいる間だけはよく酒を飲みに来ていた。アレックスやトニーと一緒に。パブに向かって足を走らせる。学生通りの石畳、三つある橋の川沿いを走る。そこから左に折れて、通称親不孝通りと呼ばれる飲み屋街へ。色とりどりの明かりがその細い路地を照らす。そこから一つ、二つ、三つ目の店。明るく騒がしいパブの蛍光灯を見上げて、バロンは雨に打たれた。ガラス張りのパブの中には数名の客とカウンターの中のバーテンが静かに会話をしているだけだった。黒いスーツも黄色い滑らかな肌身、あの朧げな微笑みもそこにはなかった。雨に紛れて思い出だけが、彼の奏でる優しいバイオリンの音のようにバロンを包む。肩で息をしながら、降る雨に顔を向けた。幸福は意志だ。今日がダメでも明日、明日がダメならまだ先に。バロンがゆっくりと店に背を向けた瞬間、何処からともなくバイオリンのか細い声が聞こえてきた。振り返って周囲を探す。右に、左に、光の当たらない暗闇に目を凝らす。死んでしまいそうなバイオリンの音が闇の中から聞こえてくる。音を頼りに近づいた。光の届かない路地裏のゴミ置き場に座って、ずぶ濡れのバイロンがバイオリンを弾いていた。
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