第19話 summer end 9

 息を呑んで彼の状態を観察した。

 なんてこった。バイロンの腕はあの輝かしく肉付き、力強く弓を引き抜いていたあの腕とは打って変わって、骨と皮、そして筋の露出した実に見窄らしい姿になっていた。頬はこけ、代わりに瞳が落ち込んだ目の窪から張り出している。衣類はボロボロで垢に塗れており、異臭がし始めていた。豊かだった黒髪は手入れされないまま伸ばされ、彼の至る所にへばりついていた。それでも彼の爪弾くバイオリンだけは、かつてと同じ輝きを保って彼の腕の中にある。添えられたバイロンの指は、ほぼ骨のような有様だった。指先に皮は裂け、そこから血を滲ませながら、彼は雨の歌をバイオリンに歌わせている。


 唇を噛んだ。想定以上の最悪、だった。そして雫の落ちる前髪を避けて片手で瞼を覆った。頭の中に、かねてから自分が放言していた言葉が蘇る。〝薬物だの酒に溺れる奴は負け組だ〟ロックウッドは厳格が学而、それは上流階級に存在する人間たちの常識であった。常に己を磨け、手を止めたものから引き摺り下ろされる。下を見ることが出来る人間達は下の恐ろしさを知っている。だから弱点を他者に開示しない。バロン・クラウドは下層の人間の趣味、生活を冷笑しつつ眺めていた。その現実が、今自分に降りかかっている。自分がそうやって蔑んだ誰かになってしまった彼を見て途方に暮れている。自分の程近い人間がそうなってしまう可能性を考えずに放った放言は、今や運命の槍となって彼を貫いた。鼻をつく後悔を飲み込んで、バロンは顔を作った。笑顔だ。刺激しないように。ともすればこぼれそうになる涙を雨に隠しながら。


「やぁ、バイロン」


 声が震えているのを隠しながら、バロンは言った。「どうしたんだよ、濡れちまうぞ」


 バイロンは答えない。ぽろん、ぽろんと雨音と同じ速度で弦を爪弾きながら虚空を眺めている。


「俺の、俺の声も忘れちまったのか」


 ゆっくり近づいて、彼の前に片膝をついた。濡れたゴミ袋を玉座に座る彼の足首は、折れてしまいそうに細くなっていた。雨が匂いを撒き散らす。ゴミの饐えた匂い、そして人間の垢の匂い。ロックウッドではお目にかかれない自由なる路上生活者の匂い。言葉が見つからないから、顔を伏せて涙を呑んだ。


「……雨の、雨の音は、……綺麗だ……」


 掠れたバイロンの声が聞こえた。顔を上げて久々の彼の声を聞く。ああ、と答えた。


「ほら……聞こえるだろ?……音階が……。色々な音がする……。月の光の……」


 また、ああ、とだけ答えた。彼の目を見る。なんて遠い所にある視線だ。彼はもう、この世界なんて見ていない。それでも、とバロンは考える。幸福は意志だ。意思をもって幸福という事。それが幸福だ。どんな状態だって幸福は作り出せる。だからバロンはバイロンに声をかけ続ける。彼の細くなってしまった手を取るために。


「雨の、雨の音もいいもんだ、けど酒もいいさ、バイロン。少しモノを食わないか。酒だっていい音がするよ、グラスに跳ねる氷や、会話だっていい。聞こえるだろ?ちょうどラジオでベントラーをやってる。お前、好きだったろ?」


 力無いバイロンの笑い声が聞こえた。


「ああ……いいね、ベントラーは……。ジャジーだし、リズムが……」


 掴んだ、とバロンは思った。彼の力無いなりの笑顔に何かの確信を得た。会話だ、このまま会話を続けて、彼を一先ず店の中に連れ込む。それから酒を飲ませて、眠らせる。そして病院か矯正施設に叩き込む。彼の人生を矯正するにはもうそれしかない。


「行こうぜ、バイロン。さあ、立てよ、熱々のスープを仕立てて……」


 バイロンは立ち上がらない。虚空を眺めながら座りの悪い首をぐるりと回し、酒場の屋根から降り落ちる汚水を顔で受けている。


「……星の名はニガヨモギだ……」


 アレックスの言葉が、バロンの中に蘇る。何かはわからない。だが、何かがバイロンを支配していることがわかる。バロンの悲しみはそこで義憤に変わった。何かはわからない。だけれども、バイロンを支配している何かを彼は許さないと思った。そいつに触れるな、クソ野郎。そいつはお前如きにどうこうされる人間じゃない。


「いくぜ、バイロン、アブサンならしこたま飲ませてやる。いいか、あれは飲み方があるんだ。砂糖を山ほど混ぜるんだよ、そうじゃなきゃ俺だって……」


「……バロン、君の声も綺麗だ……」


 胸に中に濡れたバイオリンを大事そうに抱え込んだバイロンが呻く。呻く、という言い方が正しい。けれど彼は微笑んでいた。微笑んだまま、彼は語る、辿々しく、何かに支配されながら。


「ねえ、私は、やっとわかった、わかったんだよ、月の……月の光の出所が……。バロン、君も月の光だ、アレックス、そうアレックスに謝らなきゃ……違うんだよ、そうじゃないんだ……夢が……夢を見るんだ、真っ青な草原にね、幾つも骨壷が並んでいる。その中の一つを探しているんだ、私は。誰かが、……多分マリアだ、マリアが後ろで止めてって泣いているけど、私は骨壷を探さなきゃいけない……」


 ダメだ、そう感じたバロンが、彼の揺れる体の脇に腕を入れる。強制的に立ち上がらせて、彼を運ぼうとした。酷い匂いが鼻をついたが、そんな事はどうでも良かった。何より辛かったのは、彼が予想以上に軽かった事だ。


「……アレックス、アレックスは元気かい?……謝らなきゃ。でもアレックスに……」

「元気さ。今すぐ会えるよ、お前に会えるって聞けば、あいつだってすっ飛んでくる」

「はは、……良かった。ねえ、バロン。月の光の話だ……」


 彼を引きずりながら、パブの扉を開けた。驚いた顔でこちらを見たのは、元同僚と店長だった。バイロンに聞こえない様、口だけで緊急性を演出した。バロンの顔に何かを察したパブの店長が、彼らを奥ばったソファの席に案内をした。


 ソファに倒れ込んだバイロンはまだ虚空を見ながら、微笑んでいる。濡れた垢の匂いが店内に広がったが、臆せず店長はバロンに耳打ちをした。『一番強い酒を出す。食い物は?』

 スープ、と端的に答えたバロンから離れようとした店長を捕まえてバロンは言った。

「それと憲兵隊、医療部、アレックスに連絡をして欲しい」


 コーンスープは湯気を立て、バイロンの前に静かに座っている。けれどもバイロンはずっと虚空を見上げたまま、時折ラジオから聞こえるベントラーのギターに反応している。


「……ベントラーのギターも、いや、違う……月の光じゃない、あれは……。ねえ、バロン、月の光を捕まえたのに、何故私達はそれをみすみす手放す様なことをするんだろう?」

 バロンには答えられない。彼は待っているだけだった。アレックスを、あるいは憲兵隊を、そして医療部を。そんなバロンを置き去りにして、バイロンは続ける。


「私は今、満ち足りてるんだよ、バロン。子供の頃は父を憎んだ。毎日毎日血の吹き出るまでバイオリンをやらされた。一音でも違えば殴られたし、食事を抜かれた。そして様々な人の前に連れ出された。その度に、カーチーとバカにされ罵られた。でも、月の光、月の光は今私の手の中にある……感謝してるよ、父親に……」

 返す言葉がなかった。だから話題を変える。


「スープを飲めよ、冷えちまう。俺はもう飲んじまったぜ」


「ねえバロン。全ての音はそこにあるんだ……全ての音は美しい。存在するだけで意味がある……虚空にも音楽は奏でられている……私達は月の光に包まれている……なんて幸福だろう……。君には聞こえないかい?でもご覧、それを資本に変えてしまうと、途端に音は途切れてしまう……」


「ベントラーの」

 苦し紛れに言った。

「ベントラーの音だって良いだろう?音は途切れてないよ、続いてる。あいつのギターをお前は褒めてたじゃないか」


「……月の光じゃないんだ……あれは月の光じゃない……私は対価なら受け取ってる、君の笑顔や、たくさんの人の笑顔、マリアやアレックス、トニー……月の光を聴くために、奏でるために私は演奏するんだ、資本の、六ゴールドの為じゃない……。君だってわかってるだろ?本当は……。だって君は、私の為に、……」


 堪えていた涙が迫り上がってついに頬を伝った。奥歯を噛んで喚き散らしそうになる全てを堪えた。そう資本じゃない。資本ではない行動の純粋さを、バロンも理解していた。そして無視していた。楽しかった、とバロンはそれを思い起こす。何もわからないところから始まり、手探りで資料を集め、段々と形が見えてくる。それは自由だ、全てを自由に構成できる素晴らしい時間だった。試行錯誤を繰り返し、失敗し、更にそれを手直しして、成功する瞬間。それら全てが、誰かのために行動できている喜び。誰かに求められているという実感はそのまま、生命の歓喜の記憶としてバロンの中で煌めき続ける。


 それでも。


「……六、六ゴールドを受け取ってくれよ、バイロン……」


 涙声で告げた。もう隠さなかった。何をしても彼を連れ戻れなければならない局面に来ていた。どんな手を使ってでも彼を、『この世界』に繋ぎ止めねばならない。


「その、六ゴールドはスープだ……。でもそれは、お前の、お前の命を繋ぐんだ、お前の明日になる。明日のお前はもっと月の光に近くなるから……!だから!」


 一瞬バロンに視線を向けたバイロンはまた虚ろに微笑んで今度は目を閉じた。


「はは……、泣くなよ、バロン……君らしくないぞ……。君だって知ってるはずだ……、……骨壷はね、私の物なんだ。私の骨壷を、探さなきゃいけない……灰が、灰が詰まって……。悲しみが、悲しみが私を見つめるんだ……、凝っと……、風と空気が……、バロン、私が言いたいのはね、きっと、君にもいつかわかるって事なんだ……。から……」


 パブの玄関が騒がしくなった。店の外には、丸いデザインの救急車、医療部、そして憲兵隊が立っていた。扉を押し除けて駆け込んだのはアレックスだった。彼はバロンと同じようにバイロンを見て、顔を引き攣らせて立ち止まった。そして泣いているバロンの肩に手をかけた。六ゴールドのコーンスープは結局バイロンの口に入らないまま、冷えてしまっている。

 別れの言葉も交わさぬまま、バイロンは医療部に収容され丸い救急車に乗せられて病院へと搬送される。


 そして三日後、バイロンは収容先の病院からも忽然と姿を消した。今度はロックウッドの街中、何処を探しても彼の姿は見つからなかった。

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