第20話 summer end 10
それから、二年が経過した。
バイロンは何処を探しても見つからなかった。あの夜からバロンもアレックスも、外洋演習から帰ってきたトニーですら彼の姿を探し、ロックウッド中に情報提供を求める張り紙を貼った。クーパー家が出した情報提供者への謝礼金は1000万ゴールドを超えたが、上がってくる目撃情報は貧民街でのガセ情報ばかりだった。若き天才バイオリニストの失踪はワールドクロックの三面を飾ったが、半年もすれば話題にする者は居なくなった。
バイロンを探しながらも三人は、それぞれの人生を進んでいく。トニーにはカウンセリングが必要になった。バロンとアレックスは暗いものを腹に抱えたまま、論文の提出を行い、及第点を得て、卒業証書をその手に持った。バイロン・クーパーのいない世界で彼らはそれぞれの家業に就く。トニーは憲兵隊の役職に就き、アレックスは父親の秘書官、バロンは自社の副社長、マーカス・フランクリンの元で経営を学ぶ。そして、音大名誉教授、クラウス・フォン・デルフィードは自らの意思で教授職を辞した。クーパー家から再三の引き止めがあったけれども、彼の決意は揺るがなかった。
あの雨の夜から二年と半年が経過した、ある秋の日だ。
やる事もないから机を磨く。そしてその机に足を乗っけて居眠りをする。次期社長の職務が決まってしまっているから彼にはもう努力がない。努力がないから、努力をし、それが報われたあの、アンプ制作時の輝かしい時代を思い返す。同時に彼を思い出した。バイロン。彼の行方はまだわからない。トニーは憲兵隊の調査資料庫から彼の調査記録を探ったが有力な情報は何も見出せなかった、と嘆いている。アレックスに至っては、政界の裏の繋がりを利用してまで彼の動向を追っていた。そこにも引っかからない。バロンもまた自らのツテを駆使して彼の情報を追ったけれども、判明したのは彼の過去だけ。
バイロン・クーパー。旧姓、バイロン・サンス。世界的バイオリニスト、ニコロ・サンスの次男。妻の華国人、王 花梨との間に生まれる。幼い頃からバイオリンの腕に秀で、サンスの厳しい指導を受ける。既に落ち目であったサンスはバイロンを使って稼ぐ為彼をあらゆる場所に引っ張り回した。バイオリンの腕はその際に磨かれた物だと思われる。虐待に近い練習を科されていた彼にとって、良い演奏とは生き抜く為の方法そのものだったろう。
今ならわかる、とバロンは考える。あいつにブルースはあった、ありすぎるほどあった。けれど彼は誰の前にも、アレックスやトニー、自分の前にだってそのブルースを開示しなかったのである。
物思いに耽るバロンの執務室に一本の電話が繋がれる。電話越しの秘書、ローリーがいつもの様に蓮っ葉で間延びした受け答えをする。
『あぁ〜〜、補佐ぁ?なんかぁ、アポ取りの連絡があってぇ』
要件を最初に言わないから、彼女の電話は長くなる。彼女の話を聞くコツは、話の半分以上意識を飛ばす事だ。
『なんかぁ、チョー低いきもい声でぇ、バロンはいるかい?とか聞かれてぇ』
OK。昼飯は食ったから次は夕飯、その前にアフタヌーンティーを少々。
『アタシィ、チョーウける、とか思ったんだけどぉ、めっちゃ笑い堪えてェ、名前聞いたんですよぉ』
おお、偉いぞ、尻軽。相手の名前を聞く芸がやっとできる様になったな。
『そしたらぁ、ばい、バイロン?私はバイロンだよ、言えばわかるって言われてぇ、』
体を跳ね上げ背を正した。電話越しでローリーが長話を続けている。
『バロンとバイロン、似てるくない??ってぇ、あたし思ってェ、悪戯だと思ったんですけどぉ』
「いつだ」
緊迫した声で彼女に返した。電話口で彼女は、は?と高い声をあげている。
「いつの連絡だ」
『ついさっき……』
電話を叩きつけ、取るものも取らず走り出そうとした執務室の扉がノックされる。息を呑んだ。あいつだ、と細胞がそう感じた。
「バロン?俺だ、マーカスだ。入るぞ」
ドアを開けて入ってきたのはマーカス・フランクリン。クラウディアの副社長である。人情家で職人気質の彼は生産部の統括だ。黒い肌に白髪の混じった髭がチャーミングな壮年の男性である。
「どうした?急ぎか?」
バロンの姿を見て、何かを感じたマーカスがそう彼に声をかけた。バロンはなんと言っていいかわからない。わからないが、今はそれどころではない。
「学生時代の友人から連絡があったんだ」
そのまま彼の隣を駆け抜けようとした。コーヒーカップを抱えた彼は、湯をこぼさない様注意しながらバロンの背中に呼びかける。
「バイロン・クーパーか?」
足を止めて振り返る。
首を振りながら黒い肌の背広の紳士が彼に呼びかけ、メモを渡す。
「さっき、下で会ったよ。学生時代の友人だ、と。君に会いたいから、このメモの日時に指定の場所に来て欲しい、と渡された。真っ黒いコートの痩せた、細い男だったな」
足早に彼に近づいて、手の中のメモを引ったくった。汚れたメモの切れ端には震える字でこう書かれてあった。
〝今晩0時前、レックサイド地区33番地、フラッフィーマンション 1408号室まで〟
◇◆◇
会社を飛び出したバロンはその足でタクシーを捕まえる。レックサイド地区はここから南に数百キロ、速度の出ないビートルでは一日かかる場所にある。忘れ去られた街、生贄の街、特に、麻薬常習者、オピオイド系のヘロインが出回るこの世の煮凝りとして存在する、貧民街の一つだった。そんな場所だから殺人事件も当然モンスターも多く沸く。上流階級の人間は口に出さないだけで理解している、そこは餌場だ。自分には関係のない、居なくなっても痛くもない人間を、キマイラに差し出し自分たちの命を守る場所。スカイコージやドレイクが度々貧民街でのみ目撃されるのも、そういった理由である。
タクシーを捕まえ、駅に急ぎ、取り敢えず最寄りの駅までの切符を買った。汽車でもかなり時間がかかるから、発車時刻までの空き時間を利用して、アレックス、トニーに連絡をした。連絡をしたが互いに留守だった。託けは済んだから、汽車に乗り込んだ。最寄り駅、ドーンウルフまではおそらく6時間はかかるだろう。途中、モンスター達の襲撃があればさらに時間は下がる。汽車には専属の遊撃隊が控えているが、複数のモンスターに襲撃されれば全員が捕食される恐れもあった。胸に忍ばせたのは自社製品、自動小銃のグレッタ2059。装弾数は6発と少ないが、当たればグール程度の頭なら吹っ飛ばせる。
胸に潜ませたグレッタを抑えながら、バロンは流れる車窓を眺めている。遠く西の果てに赤黒い線を引きながら太陽が沈んでいく。銃。あの時、あいつは言った。音楽も銃も人を殺すものだ、と。違うよ、とバロンは記憶の中のバイロンに言った。そいつは違うぞ、バイロン。音楽も銃も、どちらもツールだ。道具でしかない。音楽が人を生かすのなら、銃にだって人を生かせる。
レックサイドに着いた頃には既に時刻は23時を回っていた。ゴミだらけのストリートではオピオイド中毒者がゾンビの様なナリで外を歩いている。下水の匂いが立ち込める中、男の叫び声が聞こえてきた。刃物を持ったジジイが陰茎を跳ねさせながら絶叫しつつ通りを走っていく。道の真ん中で素っ裸の女がケツを振りながら涎を垂らしており、遠巻きにそれを見ていた数名の男性が薄汚れたパンツの中を弄っていた。誰も彼もが怒っていて、誰も彼もが悲しんでいた。バイロンの言葉を思い出す。〝悲しみが私を見つめている〟銃痕で割れた標識を頼りに、33番地を探し当て、バロンはやっとフラッフィーという建物を見つけ出す。入り口は鉄格子で厳重に施錠され、全ての窓にも網目上の鉄が設置されてあった。汚れた首吊り縄が二階のベランダから垂れ下がっていて、その下に腐り落ちた赤い布が鉄格子に引っかかって揺れていた。
胸に潜ませたグレッタをもう一度確認して、鉄格子を引く。中にまた扉がある。鉄製だ。それを開く。細い通路が目の前に現れる。まるで収容所の様な間隔で並んだ扉は例外なく煤けて汚れていた。瞬く電球は裸で、複数割れてしまっている。並んだ扉から叫び声が聞こえる。子供を殴る母親の声、大声でセックスを楽しむ女、女を殴りつける男と、キマってしまった妄言達。全て今は無視をするべきだ、バロンは考える。自分は聖人ではない。自分もまた貧民街の哀れな人々を食い潰して立っている側の人間だ。部屋番号を確認する。14で始まるのは恐らく14階、周囲を探してエレベーターを見つけた。点検も修理もなされていない油圧式のエレベーターに乗り込む。乗り込む瞬間、カーゴが酷く揺れた。グラグラと揺れる足元に恐怖を感じながら、それを無視するため、動き出したエレベーターの回数表示を眺める。8……、9……、バイロンは本当にこんなところにいるのだろうか?あの美しく健やかだった彼にこの場所はとてつもなく不釣り合いだ。ローリーの言う通り、イタズラではなかったか。こう言った場所に大企業の子息を誘い出し、誘拐、監禁、強請りたかり、幾つもの犯罪が思いつく。それでも、バロンはそこに飛び込む他なかった。バイロンの名を持つ手がかりが、もうそこにしかなかったから。
1408号室の前で、一度立ち止まった。時刻は23時45分、誂えた様な時刻だ。廊下には赤黒いマットが引かれており、下層階よりは比較的清潔だったが、やはりこの階層にも陰鬱な気配がそこここに滲み出ている。水色のコートの襟を引いて、ノックをした。返事はない。耳の痛くなる様な沈黙が続いて、廊下を照らす蛍光灯が瞬いた。もう一度ノックをした。そうしたらやっと、扉の向こうで何かが動く気配があった。手を前に組み、息を吐いた。多分、酷いものを見るだろうから、と自分に言い聞かせた。騒ぐな、驚くな、もしそれが彼なら。ここからまた始めればいい。
薄気味悪い音を立てながらドアが開かれる。そこには彼が居た。乱れ切った黒い長髪の奥に、死人の肌がのぞいている。落ち込んだ眼窩にも薄暗い闇が入り込んでいる。ボロボロになった歯を見せて、バイロン・クーパーは笑った。正に悪魔のそれだった。
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