第21話 summer end 11
異様な姿だった。
伸び放題の黒髪にはあの頃の艶はもうない。四方八方に飛び出た後毛が逆立って彼の頭部だけを大きく見せた。艶はないが黒髪は重く彼の肩に腰に覆い被さっている。ベッタリと埃の層をその上に降り積もらせて。衣類は失踪した時のままだった。真っ黒なチェスターコート、袖口や裾がほつれて毛羽立っている。何よりも異様だったのがその顔だった。骨だ。本当に生きているのか、とバロンは彼を見つめた。白い骨の上に薄い皮を乗せた何かが喋っている様にしか見えなかった。あの時より酷い匂いが鼻をついた。喉の奥を締めてそれを締め出した。
「……やぁ、バロン……来てくれたんだね……嬉しいよ……」
声も変わってしまっていた。低く艶のあった彼の声は、今やしわがれた老人の様だ。無表情で彼の姿を見た。全てが予想通りだった。あの時、この世界に彼を引き止められなかった。彼は六ゴールドの、たった六ゴールドのスープを飲まなかった。あの時はそうだった。でも、捕まえたのだ。捕まえたのなら、引き戻せる。
「久しぶりだ、バイロン」
笑顔を作って彼に手を差し出した。
◆◆◆
玄関から細い廊下を歩く。壁紙は既に剥げていて、中のレンガが覗いていた。廊下は掃除されておらず砂まみれだった。少し歩くとリビングに出る。何もない殺風景な一室がそこにあった。鉄格子に覆われてたった一つ開けられた窓から、奥に見えるいかがわしい店の赤い光が差し込んでいる。それが青に変わり、ピンク色に発色する。窓にはカーテンがかけられていなかった。それ以前に、部屋の中には照明すら設置されていなかった。右手に簡易なキッチンと備え付けのオーブン。そこから酷い匂いが漂ってきている。
暗い部屋の中に一切の家具は設置されていなかった。クローゼットは開け放たれており、中の棚は腐って落ちていた。ベッドすらなかった。冷気の吹き込む暗い部屋の真ん中に、足を引き摺りながら歩いていくバイロンの背中は曲がっている。老人の様だ。骨の様な指を突き出して調子を取りながら、嬉しそうな声で彼は言う。
「は、は、嬉しい……、嬉しいよ、懐かしいな、ン、んバロン、会えた、君に会えたよ、へへ」
口調は退行していた。かつての彼は知的であり会話もまた優雅だった。音楽家の性質なのだろう、彼はその話す言葉にすら何かしらの音階を感じていたと思われる。それももうないのだ。音楽は消え果てた。
「バイロン」
薄い水色の背広、その上に羽織ったチェスターコートも脱がず、バロンは冷たい声で彼に呼びかけた。
「ここを出よう」
黒い悪魔はゆっくりと彼に向き直る。
「はっきり言う。お前には治療が必要だ。スープを飲まなかった事も、定期演奏会をすっぽかした事も、自主退学も、失踪も、何一つ気にしなくていい。俺もアレックスもトニーも怒ってなんかない」
悪魔の黒い髪が左右に震え出した。
「ノー、ノーノーノー……。だめだよ、バロン、私はここにいる、ここにいるんだ……ここじゃないと音が聞こえない……。この、この窓から月が、月が見えるんだよ、バロン、……あの月が、ニガヨモギが……」
「だめだ。アレックスとトニーにも場所を伝えたよ。俺は今から強制的にお前を治療病棟にブチ込むつもりだ。多少の暴力は多めに見てくれ、その覚悟で来てる」
黒い髪が狼狽えて、体を左右に揺らし始めた。辿々しい懇願の声が嘘くさくて不快だった。それでも、それは彼の、バイロン・クーパーの気配を残している。
「嫌だよ……バロン、君は、私の演奏を聴きに来たんだろ……?新曲を作ったんだ、ねえ、この場所で、いい曲なんだ、君に、最初に聞かせたくて……」
そしてやっと、バロンはこの部屋の唯一の家具を見つけた。あかりの差し込む窓の下、濃くなった暗闇に隠れる様バイオリンが置いてある。この今にも崩れそうな部屋、何もない監獄の様な部屋の中でそれは唯一輝きを放っていた。所々に傷はあったが、美しく手入れされているそれを見つけて、バロンは沈黙した。救えるかもしれない、と錯覚したのだ。バイロンはまだ音楽を捨てていない。ならばきっとそれは、音楽は、彼を再生させる事になる、と。
OK、と呟いて、バロンは抑揚のない声でバイロンに告げる。
「聞かせてくれ、バイロン。その代わり、聴くに耐えない演奏なら即演奏を辞めさせる。君を一時的に拘束して、今度は閉鎖病棟にブチ込む。俺を恨んでくれていい」
黒髪の奥の髑髏の目が見開かれて、ボロボロの歯が剥き出された。輝く様な笑顔を作ったのであろうバイロンは、へ、へへ、と笑いながら足元のバイオリンを手に取る。細い指が絡まる様に弦を押さえる。弓を構える。先程まで老人の様だった彼の背が伸び、顎が引かれる。多くの芸術ががそうである様に彼もまたバイオリンを持つ瞬間だけ、23歳の青年になった。
そして12時の鐘が鳴り始める。それはレックサイドの貧民街に響き渡る鐘の音だ。犯罪の手を止めるための大音量、それが12回。きっとその街のそこかしこで、今の瞬間誰かが殺され、誰かが逃げ出したのだろう。
12の鐘を待って、弓が弾き抜かれた。耳をつんざく様な不協和音、けれどそれが不快な、不快だけれども音楽になっている。眉を顰めてバロンはその曲を聞いた。恐らくは暫く聞けなくなるだろう彼の演奏だ。そして、彼の演奏、その技術を悲しい目で見つめる。それは彼の曲ではない、彼の父、ニコロ・サンスの代表曲だ。死人の舞踏。墓場から蘇った死神どもが、バイオリンを奏で笑いながらワルツを踊る。白い骨の滑らかさを彷彿とさせる不穏で怪しい音色、死神達の囁き声と、彼らが輪になって踊る際にぶつかる骨の音がバイオリンで表現されている。
もう彼に曲は作れない。あの美しく先鋭的だったカプリースも聞けなくなるかもしれない。彼は六ゴールドを拒否するだろう。けれども、人はパンのみでは生きられない。パン以外の生を追求するものがパンでのみ生きる事を切望する。そいつは欺瞞だ。まるで人生のような、皮肉に満ちた、欺瞞だ。
主題が展開した。止めるつもりはなかったけれど、止めざるを得なかった。
「ヘイ、バイロン、もう十分だ」
バロンがそう言って手を伸ばした。バロンの手から逃れる様身を翻したバイロンは、突然バイオリンの弦に当てていた弓を自分の頸動脈に添えた。
伸ばした手を引く間もないまま、目を見開いてそれを見る。
恍惚とした笑顔でバイロンは自分の首の皮を弓で引き始めた。前後する弓が彼の首の皮を引き裂く。激しく前後する腕の運動は止まらない。やがて引き絞られた馬の毛に彼の血液が付着し始めた。
「ハァッ!!ハ、ハハ見つめてる!見てる!悲しみが私を見てる!星の名はニガヨモギだ!」
バイロンの首から血が吹き出す。彼の黒い服を更に黒く染めて足元に流れ出す。ギ、ギ、と骨の軋む音が聞こえ始めた。声も出せず、息すら出来ずにバロンは震える。血の気が引いて、同時に足の力が抜けるのを感じた。尻が汚れた床に張り付いたのがわかったが、立ち上がれなかった。
バイロンは口を開き大声で笑い続けている。その笑い声が、引かれる弓に遮られて崩れ出す。が、がふ、と口から吐き出した血に構わず、彼の腕はノコギリでも引く要領で首の骨を壊し始めた。馬の毛が首の骨によって千切れ、窓から差し込んだ赤い光を受けて血の様に舞っている。
バイロンの青白かった肌は更に白くなり、目が淀む。弓を持つ手が脱力する。弓はバイロンの首の中ほどまでを侵食し、そこで止まって動かなくなった。同時に彼も膝をつき、頭から床に倒れ込む。何処に弓の毛が入り込んでいたのだろう、うつ伏せに倒れ込んだ彼の首は、その自重と弓の力学によって綺麗にわかたれてしまった。物凄まじい笑顔を浮かべたバイロンの首がごとり、と音を立てて転がり、その虚な目をバイロンに向ける。
瞬間。
豪雨の様な拍手が聞こえ始めた。バロンは混乱の中、必死で足を動かし後退りをした。今やバロンのへたり込んだ場所はオペラハウスの最後部に成り代わっている。赤く高級な絨毯が敷き詰められたオペラ座の会場、すり鉢型になった遠くの舞台で首を切断したバイロンの遺体が倒れている。拍手をしていたのは、そのオペラ座を埋め尽くす満員の観客だ。老若男女がこぞって立ち上がり舞台上のバイロンに拍手を送る。けれども、拍手をする観客全員に首がない。刈り取られた首から流れる血でドレスを、燕尾服を濡らしながら、彼らはバイロン・クーパーに惜しみない拍手を送っている。そして突然、拍手が止んだ。
彼らは一斉に、オペラ座の最後尾、出入り口の前にへたり込んだバロンに体を向けた。そして何処にあるかわからない口で全員が彼を指差し、こう言ったのだ。
「YOU」
何処をどう走って逃げたのか、バロンにはもう思い出せない。意識と呼べるものが戻ったのは、憲兵隊の保護車の中で毛布を被った自分を、半泣きのアレックスが抱きしめている時だった。
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