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第22話 Kislorod 1
小さな銃の形をした気温測定器を持ってもう小一時間になる。
手の中の小さな銃は時折ピッと音を鳴らしながら、周囲の気温と湿度を告げた。大体10分間隔、それ以外は計測したい空間に向けてトリガーを押すと、撃鉄の代わりに設置されている液晶の中に気温と湿度が表示される。渡された機器を様々な中空、ーーと言っても暗闇の中なので何処を計測しているのかは判別しかねるがーーに向けながら、大神恵一は前を歩く黒い男の背中を訝しんだ。
破壊された教室を出てかなりの時間が経ったが、まだ階下へ渡る階段は現れない。男と自分の肩口には光る球体、防御システムであるピノッキオが浮かんでいる。個人用の結界にもなるらしいそれは足元を照らす光源としても機能した。全く合理的で隙がない、魔法の様な技術である。
「ヘイ、BOY、どうだ、やっぱり変化はねぇか。氷点下の気温を計測すればそれがそのまま証拠になる」
前を行く黒いスーツの男、バロン・クラウドは口の端を引き上げ歪めながら大神恵一を振り向き見る。見られた大神も、居心地が悪くなって彼から視線を逸らした。腹が立つほど整った顔立ちをしている。
「ない。ずっと23度前後だ。っていうか、あんた外洋人だろ。なんで倭国語喋れるんだ」
はは、と笑った男は顔を正面に向けてパンツのポケットに手を突っ込んだまま答えた。
「Obviously translation machine、You know?」
聞き慣れない言語が聞こえてきたので、目を丸くして彼の背中を見る。
「聞き取れなかったか?翻訳機に決まってんだろ、つったんだ。耳の中にはイヤホン型の言語変換器、奥歯に発声変換器を仕込んである。ウルタニアからガネーシャ、南北アラギア、華国、華南、南ランドマリーまで大体の言語は翻訳可能だ」
バカにされた事も含めて、大神恵一は鼻の頭に皺を寄せた。口を歪ませながらも結んだのは少し羨ましかったからだ。全てがきっと思い通りなのだろう、と前をいく男の背中を見る。そして自分と見比べる。鬱屈した性を抱えている。歯痒い何かに立ち向かっている。そんな自分の小さな世界なぞ彼の持つ魔法を使えば、全て解放される様な予感がした。
「魔法じゃねえか。外洋にはまだあるんだな」
皮肉を込めて言ったつもりだったが、鼻につく彼の冷笑は止まらない。返ってくる。
「俺のは技術だ。魔法じゃない。本物の魔法を見たことあるか?魔法ってのは発生に理屈が要らねえんだ、奴が思うからそうなる。それが魔法で、技術には必ず理屈が必要になる」
大神恵一に答えの意味がよくわからなかった。技術が必要なら、自分の結界術も一つの技術だ。けれど倭国ではそれを「術」として魔法の一つに分類している。確かに結界術、倭国の術は外洋において「ニュートラル」と呼ばれ区別されているらしいが、それは大神恵一達、市井の人間には理解する必要のない区分である。
「この国で収まる気なら知らなくていいさ、
前を行くバロンが正面を向いたまま指を鳴らす。大神恵一の手の中の気温計測器はピッという悲鳴を上げた後、自己崩壊する様に形を変えやがて球体になった。浮かんだ球体は再度中空で展開を始める。チ、チ、と微かに摩擦音を上げながら変形し、それは最後に取手付きの大きなライト、紫色の光を発するステージ用の照明へと変化した。こうなったからには自分が何かをするんだろうな、と予感した大神恵一がその取手を両手で掴む。主人を得た様に大型のステージライトは大神恵一の両腕の間、肩幅に開かれた手の間に収まった。その証明の様にライトの重さが両肩にかかる。
「お次は紫外線、何処でもいい、くまなく周囲を照らせ。指紋どころじゃねえ、奴らの足跡、酷い時にゃあパイ拓だって見られるぜ?」
答えず大神恵一は白けた顔で周囲をその紫色の光で照らし始めた。なんとなく付き合いがわかってきた。彼の発する言葉の半分以上、聞く価値のない冗談だ。彼と行動を共にする、或いは彼に雇われている従業員にこっそりを胸の内で同情する。彼に付き合うだけで日当が発生するレベルだ。おまけに彼は指示のみをして働かない。これを内助する女性という存在がいるとすれば、菩薩に近い慈愛を持つ人間だろう。
そんなことを考えつつ、紫の光で廊下を照らす。直径10センチ程の紫の輪と、その周囲の配光に浮かぶ旧校舎の天井を眺めた。梁とその奥に伸びる長い一枚の天井。屋久杉で作ったと言われるその天井は一枚板だ、それが10メートル間隔の梁に遮られている。天井には不恰好な電球を無くした傘だけがぶら下がっており、傘は埃をかぶって汚れていた。じっくりとライトを右から左に寄せる。紫の明かりが濃くて、奥の木板が見えにくい。じっくり照らせ、と言われたから大神恵一の足は止まる。梁の縁を紫の明かりでなぞっていくが何もない。もう一度梁の周囲をなぞろうとした大神を急かす、不機嫌な呆れ声が前方から聞こえた。
「ヘイ。ネズミのクソを見つけようってんじゃあねぇんだ、もっとアクティブにやれ。MOVE!俺までミイラになっちまう」
言葉を受けて大神恵一は彼に聞こえる様に舌打ちをした。しかし既に彼の背中は廊下の先に進んでおり、右奥の教室を覗き込んでいる。腹が立つから彼の背中に紫の光を照射した。それを察したのか、彼の歩みが止まる。正面を向いたまま、彼はタバコの煙を吐き出した。その白い煙をまた紫の光で照らした。明確な嫌がらせだ。
「……よく、わかったな」
低い男の声が響いた。彼の背中から滲み出る雰囲気が変わっている。口の端を引いたバロン・クラウドが白い髪を揺らして暗くなった表情をこちらに向けた。大神恵一の中にあれが蘇る。自分の足に齧りつこうとする姉の姿、大口を開けて笑いながら鋭い爪を剥いた多治比の姿。背中の筋を伸ばして息を飲んだ、腹を守って迎撃体制を取る。「黄天に!」
緊迫した数秒の静寂の後、バロンは体を捻って吹き出し笑い始めた。丸いサングラスを片手で覆い、足を踏み鳴らしながら腹を抱える。ヒィ、ヒィと鳴る喉の音を聞きながらも、大神恵一の緊張は解かれない。だが、不信は感じている。何故、自分を襲わない?
「こいつぁたまげた!シリアスだな
彼の爆笑と状況を段々と理解して、大神恵一は口を噛んで鼻の頭に皺を寄せた。騙された事を理解して途端に恥辱が頬を染めた。腹が立つ。自分はこの場所もこの怪異も未体験、初心者に等しい。それを笑い物にされた恥ずかしさと、それを笑うこの男の人間性、そんな人間に頼らねばならない自分の立場も情けなかった。激昂には中途半端、笑い続ける男を大声で威嚇して黙らせるなど正に弱者の仕業である。諭すならまだしも、わからぬことをわからぬまま吠え続ける犬には落ちたくないから、また舌を鳴らして今度は彼に背を向けた。その時回転する紫色の光が、何か白いものを教室のガラス窓に映し出す。
何かが走った様に大神恵一には見えた。確認する為、目の端にとらえた白い影、その場所に再度紫の光を照射する。紫の光の中に白い汚れが浮かび上がる。まるで刷毛で塗りたくられた血の様な汚れは、教室のガラス窓を一直線に横切り後方の廊下に続いている。なんだこれは。息を潜めたまま、汚れの行方を照らす。汚れを追って彼の足もそちらへと歩み始めた。まだ続く。暗い廊下の中で、紫に照らされた白い汚れが道標の様にはっきりと先を指し示す。長い照射でステージライトの配光を大きく取った。遠くに薄く白い汚れの果てが見える。教室の入り口である。そこに駆け出そうとした瞬間、教室の扉が不意に開いて声がした。
「大神?!」
多治比の声だ。紫の光を声の主に当てた。そこには、栗色のボブカットの美しい女と、多治比が連れ立って立っている。
「大神、お前無事だったか!心配してたんだよ!」
久々に聞いた信用に足る人間の声だったから、彼は安心をしてしまった。見知らぬ女が彼のそばにいる事も何かの証明の様に思えた。女は右手髪をかきあげ、左手は腰に添えている。気のない素ぶりで彼らを眺めて、冷たい瞳でこちらを見た。奴らは記憶を読み取って見知った人間の顔で襲ってくる。なら、見知らぬ女に会うという事はつまり、それが現実で、彼らが本物である、という事だ。
だから多治比に駆け寄ろうとした。どこかで何かは引っかかったが、後ろにいる黒い男と一緒よりはストレスがない。声をあげて多治比の名前を呼ぼうとした直後、自分の耳の横に長く黒い腕が伸びてきた。先には銀色に輝く巨大な拳銃。
「レッスン1だ、
大神の耳元で銀色の銃がバウンドする。腹に響く発砲音、思わず頭を伏せたくなる死と救済のパーカッションが二回。打ち出された銃弾は見事少年少女の頭蓋を粉砕した。銃口から立ち上る微かな煙には硝煙の香りが混ぜ込まれている。
「……こいつの名前は〝ナッツクラッカー〟文字通りてめぇらクソ共の頭を、ナッツみてぇにクラックしちまえるイカした銃だ」
銃撃の轟音から身を引き、教室の向かいにある窓ガラスに背をつけた大神恵一が、胃のうちから息を吐いて座り込む。倒れた奴らの肉体が、バロンの言うクソ共、ツォロムのあの不気味な姿に変容していた。打ちひしがれて頭を抱えた大神を構いませずに、バロンは指先でナッツクラッカーをクルクルと回し、背広の奥のホルスターへと仕舞い込む。そして倒れたツォロムの死体に吐きつけた。
「次会ったら殺すつったろ?ベイビー?」
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