第17話 summer end 7

 秋晴れの心地よい午後だった。

音大キャンパス内、野外ステージに程近いガーデンクロック下に立つのはバイロン・クーパー。片手にバイオリンケースをぶら下げて待っている。隣のアレックスは時計を見ながらなんだか忙しない。気にしたバイロンが声を掛けた。


「君らしくない。アレックス。君はいつも鷹揚に構えているだろ?いつもみたいに立っててくれよ、なんだか私まで気が急いてしまう」


 肩を竦めて両手を上げたアレックスが答える。


「鷹揚とはお言葉だな、この小心者を捕まえて。小市民とは小銭を景気良く使う癖に、時間には神経質だ。待つという事は苦痛だな。一つの希望でもある」


 アレックスの答えに口の端を引いたバイロンが、更に返す。


「希望かい?漫然とした嘆願のような」


 アレックスが嬉しそうにバイロンを見上げた。綺麗な緑色の目には同族を見る高揚に溢れている。


「その希望に縛られたままの殉教者だ、我々は。悔い改めるべきかもしれん。その時が来てる」


「待っていれば或いは」


「なんと甘美な苦痛なるか。星に向かって歩くことすらできないなんて」


 互いに掛け合ったのは、今このロックウッドで上演している『待つ』という演劇の台詞だった。不条理で詩的、特に美術関連の作家達の評判を集めている脚本だ。知っていると思った、とアレックスは腹の中で飛び跳ねながら思う。バロンやトニーとは出来ない美術関連の批評的遊戯だ。アレックスは本来、こういった遊戯に興じるタイプの人間である。バイロンから返って来る言葉がやはり多くの作家、芸術家が内包している何かを持っていて心地がいい。だから更にアレックスは待った。次の台詞は、クソッタレな時間の話で俺を虐めるのはいい加減にしてくれ!、或いは、今日は来ないが明日は来る、だろうか、と期待した。けれど。


「……星の名はニガヨモギだ……」


 遠くを見ながらバイロンはそう告げた。アレックスはその台詞を知らなかった。少なくとも、『待つ』の中でニガヨモギという言葉は使われていない。誰の詩だ?アレックスの脳内の辞書が開く。が、作者の名前も見当たらない。


「そんなものあったか?」


 アレックスは遊戯を中止してバイロンに聞いた。まるで気がつかされたように、バイロンの虚な目に光が返って来る。


「……ああ、すまない。折角面白いところだったのに……」

「『待つ』をやってたと思ったがな。出典は誰だ」

 いや、と断ってバイロンは続けた。

「最近、少し夢見が悪いんだよ。多分、夢の中で聞いた言葉だ」


 バイロンの答えにアレックスの目が一瞬細くなった。カノーネの件は差別ではない。差別ではないが、彼自身の一つのステータスにはなり得たろう。彼には既にクラウスの思惑は伝えてある。少し寂しそうに、けれども決意を秘めた目で、彼はその言葉の全てを受け取った。願わくばその挫折が少しでもより良い哀歌ブルースになるように。声には出さずそう祈ったアレックスの耳に聞き覚えのあるあいつの声が飛び込んできた。いつものように乱暴で横暴だ。


「アレーックス!!!ちょっと手伝え!」


 ◆◇◆


 トニーとバロンが二人して腰を痛めながら抱えた機械は、全長2メートルほど。大きな木造の箱の前後にラッパ型のおそらくはマイク兼スピーカーを備えた、なんとも不恰好な機械だった。電源は野外ステージの照明電源を拝借した。この三ヶ月で電子回路を扱えるようになったバロンが、手際も良く電力窃盗のコードを繋ぐ。トニーは基本実習でやらされるらしいので、回路、銅線の接続はお手のものだ。途中途中でアレックスから、お前達のやっている事は窃盗だぞ、と警告あったが手を止める者は居なかった。発言主のアレックスでさえも、警告だけにとどまった。


 そして野外ステージの前に聳える音楽の女神、エーヴァ像の前に不恰好な機械が設置される。どうにか取り繕ってはいるが、箱の一部から木は飛び出ていたし、背面は紐で括られていた。不安しかないその機器をなんとも言えない表情で見下ろしていたバイロンに、真鍮だぜ、とバロンは得意げに語った。見ているだけのアレックスは肩を竦めとうとうベンチに腰掛けて新聞を広げ始めた。


「ワールドクロックのどの欄に載るべきか考えている。カノーネ、量産さる。一大ニュースだ」


 いつものアレックスを無視して、バロンはバイロンの肩を押す。


「立つ場所が重要なんだ。楽器の音を効率よく集音できなきゃ意味がない」


 大きなラッパの前に立たされたバイロンは戸惑うばかりである。そんなバイロンの様子を見て焦った様にバロンが弁解を始めた。


「理論上はこれでいいはずなんだ!計算式は合ってるはずなんだよ、見ろよ!この中身、真空管だぜ?いいか、バイロン。そこでなんでもいい一曲やってくれ。で、この集音器で音を集める。それを電気的に調整してこの、クソッ、このスピーカーから出す。カノーネなんか目じゃない、どデカい音が出る」


 彼がスピーカーと称した反対側のラッパが、話している間に装置から外れそうになっていたので、バロンは慌ててそれを取り繕った。乱暴にラッパの根っこを箱の中に押し込んで一先ずの見た目を整わせる。そしてバイロンに投げるのは精一杯のハッタリの笑顔。行う前からでもわかる。これは大失敗だ。だけれど彼はそれを認めようとはしないだろう。何故ならそれは、バイロン・クーパーその人の為に行った事だから。

 だからバイロンは全てを許す。自分の為に三ヶ月を使った友人、バロン・クラウドのこれは多分初めての大舞台だ。大失敗の大舞台だ。


「私はこういった事には疎いから、何かを言う資格はないよ。君の言うとおりにしよう。バロン。曲を弾けばいいんだね?」

「そうだ!お前は何も心配いらないよ、バイロン。お前のカノーネだ。お前の奏でる楽器はこれからなんでもカノーネになる」


 口の端から、気にする事じゃない、が出そうになったが押し留めた。バイオリンを担いで、彼の指定した位置に立つ。


「いい機会だ、曲を作ったんだよ。聴いてほしい。24のカプリースだ」



 始まりはAの弦、静かに奏でられる心地よいリズム。奇妙な緊張と優雅さと跳ねる快活さが同時にスタートする。主題は繰り返され、二度目の主題はピアニッシモに。そして大きく高らかに主題は歌われ、音は上下に行き来する。幅が人の揺らぎを作る。演奏するバイロンの体にも揺らぎを作る。カプリースは技巧の見本市だった。バイオリンに対する深い知識がなければ演奏すらままならないだろう。


 次にピチカートによる主題。静かに、儚げに。集音器は見事に音を吸い上げ、カノーネを凌駕する音量でロックウッド音大の野外ステージを震わせた。音に呑まれながらバロンは達成の感動に打ち震える。バイロンもまたバロンへの感謝と祝福に身を捩らせながら音に酔う。自分の音は今世界を震わせている。感動と興奮が彼の弓を更に力強く滑らせた。カノーネなどいらない。彼は弓を弾きながら思う。既に、世界は音楽で包まれている!


 甘い甘い主題が次に続く。まるで夜に咽せ返るバニラの花のような悩ましい音。それはバロンにとって、達成を遅らせる音の様に聞こえてしまったから、機器の側に控えていたトニーに目配せして音量を上げさせた。もっと大きな音を出すにはもっと電流を上げればいいだけだ。ツマミは右へと回される。バイオリンの音は更に大きく、ロックウッド学園都市に鳴り響き始める。


 天上から落ちて来る鋭い槍の様な下降音階が始まる。風に巻かれグルグルと宙を舞いながら流されていく音という天使の羽。バイロンはまた幸福を感じながら演奏そのものと一体化していった。ツマミは更に大きく右に回される、音が振動になって空気を揺らし始める。次はこの曲で最も力強く大きな音を引き抜くシーンだ、見せ場である。バイロンの腕にも力が入った。そしてバイロンはその日最も美しく響く良い音を出した。その瞬間。


 ボン!


 聴いたことのない爆発音がして、まがい物のアンプが爆発した。野外ステージ全体が一瞬細かく揺れたので、そこにいた全員が耳を抑えて頭を下げた。イカれた三半規管で音の情報を取りながら目視で、みな自分の状況を確認する。バロンは初めての発明であるアンプが粉々になった事を確認し、トニーは吹っ飛んでいったツマミのかけらに、肘を擦られた事を確認した。そしてバイオリンを守る様に抱え込んだバイロンと、その後ろで頭を抱えた後、顔を上げたアレックスが見た物は。


 音楽の女神エーヴァの持つ竪琴に最初のヒビが入った。そのヒビはやがて指に、滑らかな肉をたたえた腕に広がっていく。


「おい、おいおい、まずいぞ!」


 状況をいち早く察したアレックスは一直線にその場から逃走し、バイロンもまたアレックスの様を見て足元のバイオリンケースを引っ掴み走り始めた。エーヴァ像の柔らかい腰を割くようにヒビが入る。放電現象のように枝を広げていくヒビがとうとうエーヴァ像の丸い頬を走り瞳に到達した。腰に入ったヒビからゆっくりとエーヴァ像が後方に倒れ始める。

 完全なる失敗を理解したバロンもまた、ゆっくりとこちらに倒れて来る2メートル近くの石像を避けて距離をとった。そしてそのまま轟音を立てて崩壊したエーヴァ像を背に走り出す。この先がどうなるかなど知った事ではない。バロンと並んで逃走するトニーが大声で彼を責める。


「何がアンプだ!またとんでもない兵器を作りやがって!」


 走りながら腹から沸いてくる失笑にとうとう耐えられなくなって、バロンは笑い出した。ロックウッド史に残る大失敗、こんな大失敗は笑わなければ損だ。走り続けるバロン、トニーは共に腹を抱えて笑っている。アレックスとバイロンもまた、息をついて立ち止まった先で二人して吹き出し大笑いした。


 これが後にロックウッドで語られるエーヴァ像崩落事件。教授陣には学生達の未知の可能性を侮ってはならない、という訓戒として、学生達には失敗を恐れぬ勇者の物語として、連綿と語り継がれる事になる大失敗の物語の顛末だ。

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