第16話 summer end 6
ロックウッド工科大学に程近い寄宿舎の一室で、バロン・クラウドは製図台に向かっている。
クロスした定規を上に下に移動させながら線を引く。蛍光灯の下で歯噛みしながら脳が計算をし続ける。二学年に進級し必要単位は大幅に増えた。パブのバイトを辞めて、生活を切り詰めながら彼は毎晩製図台の前に陣取っている。怒りを込めて彼が作成している物、それはこの世界で発明、発表はされているが流通はしてない機器。アンプだった。半ば義務として購読しているノイマンに掲載されていた電気式蓄音機、これを見つけた彼は各種資料を取り寄せ、あの日からーーー。バイロンの手からカノーネが零れ落ちたあの日から、電気式蓄音機を作る為に身を削っている。
水銀や真空管を構成するガラスも取り寄せた。腕を捲り上げ鉛筆の煤と無数の資料の埃に塗れながら、薄暗い自室に彼は籠る。慣れない電子回路に頭を抱えながら、資料を見つつそれを繋げた。他の工科生に協力も仰いだ。だが作るのは自分だと彼は決めている。彼には許せなかった。バイロンを打ちのめした運命がどうしても許せなかった。薄暗い自室で蹲るように計算する彼の脳裏に、あの日のバイロンが蘇る。何処か浮ついた表情でカノーネを手にする女性に向け拍手を送っていた彼。聴衆達のブーイングと、それを更に逆撫でする音大教授陣、特に審査委員長のクラウス・フォン・デルフィード名誉教授が放った総評。
『総評として、非常に小綺麗にまとまっている印象を受けた。登壇者には更なる研鑽と情緒を学んで頂きたい。結果を不服だと感じるものは遠慮なく発言を。しかし発言には責任を要求する。私にはロックウッド音大の権威としての責務がある。全ての人間が良いと思うものなどまやかしだ。それを証明するために私と言う権威は存在している。批判、署名も結構!私への反対意見、批判罵倒まで全てを歓迎する。以上』
クラウスは鋭い目でバイロンの横顔を眺めていたが、バイロンは彼に最後まで視線を向けなかった。生徒達が自主的に集めたバイロン・クーパーへの正しい評価を求める署名は一千通を超えたが、クラウスは意見を変えず、カノーネは貸出期間を終え音大の倉庫に仕舞い込まれた。
ノックの音が聞こえた。霞む目で音の方向を見る。ステッキの先を開いたドアに押しつけている。アレックスだった。
「なんだ。邪魔するな」
そう吐きつけて、バロンは製図に戻る。
「鍵ぐらいかけろ、不用心だな」
そう言って部屋に踏み込んだ。アレックスの足元に散らばるのは電子回路の資料だ。覚悟のように散らばった資料を、アレックスは踏み越えられない。製図台に一本の線を引いたバロンが吐きつけるように答えた。
「欲しい物があるなら勝手に持ってけ」
答えたバロンはまた押し黙り、製図台に載せられたメモに計算式を書く。バロンの様子にため息をついたアレックスが資料を爪先で乗り越えて、たった一つあるテーブルに添えられた椅子に腰掛けた。テーブルの上にも本と資料が散乱している。
「お前飯は食ってるのか。この惨状を見ろ、女の一人も部屋に呼べないか?少し前に引っ掛けた女が居ただろう、名前は……忘れたが」
「邪魔になる」
端的に答えたバロンは製図台から目を離さない。汚れたシャツの裾と背中だけが小さく動く。それを横目で見て再度アレックスはため息をついた。
「何を作ってる?」
「アンプ」
また製図台を鉛筆が走る。
「専門が違う。お前の専門は電子機器でも音楽でもない。兵器工学だろう。寄り道をするな、単位を落とすぞ」
製図台の前のスツールに腰掛けたまま、バロンはアレックスを振り返る。彼の白い髪の毛にこびりついた垢が、灯りに輝いて情熱になった。咽せ返るような青さが彼の全身から立ち昇っている。
「アレックス。あれは差別だった」
痩せたバロンの窪んだ目の奥に怒りという名の情熱が燃え盛っている。衝動というべきか。
「あれは明確な差別だ。俺は見た。目の前で見たんだ。誰もがあいつの勝利を確信してた。楽しむ事が音楽の前提条件なら、あいつは誰よりも音楽を楽しんでいた。楽しんでいたから会場の全員があいつのバイオリンに魅せられた!比べものにならないぐらいに!」
「だからアンプを作ると?」
「そうだ!何がカノーネだ。デカい音が出せりゃいいんだろ?俺が全ての楽器をカノーネにしてやる。華国人だろうがウルタニア人だろうが、ゴブリンだろうが誰だってカノーネを奏でられる!そうすればカノーネなんてなんの意味もなくなる!」
「やけにバイロンにこだわるな。女に相手にされなくなってついにゲイに目覚めたか?」
目を見開いたバロンがスツールを蹴って立ち上がる。反動で倒れたスツールを構いもせず、すぐ後ろのアレックスに手を伸ばしたバロンが彼の胸ぐらを掴んだ。拳を振り上げて振り下ろす直前に、アレックスが大声で彼を止めた。
「ヘイヘイ!待て待て!殴るなら顔以外にしろ!体裁が悪い!腹ならまだいいが、その場合」
これはアレックスによる伝家の宝刀、必殺技だ。バロンもかつてこれを使われてアレックスに負けた。彼の全てはその舌と回転し続ける言語野に集約されている。
「パパに言いつけてやる」
振り上げた拳の行きどころがなくなったバロンの左手が緩み彼の胸ぐらを放した。真下に下がった右手拳は解かれ既に脱力している。皺になった首元を整えながらアレックスは得意げな笑顔をバロンに向けた。既に全てが馬鹿馬鹿しい。背中を丸めてアレックスから距離を取ったバロンが、呆れながら倒れたスツールを起こしアレックスに文句を言う。
「お前マジでそれやめろ。本当に殴る気が失せちまう」
「同等の相手が一番ムカつくからな。ガキ相手に本気で喧嘩できるヤツは少ない。居ればサイコパスだ」
疲れた体をスツールに下ろして、製図を再開しようとしたバロンの背中からアレックスが語りかける。
「俺が何もやってないと思うか?会ったよ、クラウスに。直談判した。その上で言う。あれは差別じゃない。少なくとも俺はそう思う」
今度はスツールを回して彼に向き合った。よれてしまった胸元のタイを正しながら彼は言う。
「俺のコネクションは既にこの大学全体に根を張ってる。だから根回しは可能だった。俺も最初は差別だと思った。コテンパンにしてやると音大教授室に乗り込んでクラウスに会った。そして考えを改めたよ。議論で負けたのも初めてだ」
「会ったのか?クラウス・フォン・デルフィードに?」
頷いたアレックスは続ける。
「彼は言った。バイロン・クーパーは素晴らしい。きっと自分には成し得ない事を行える男だろう。今すぐオペラハウスで公演を行なってもいいレベルだ。必ず成功する。確信がある。だからこそ」
息をついてアレックスが遠くを見る。部屋の薄暗い灯りに彼のグリーンアイズが煌めいている。アレックスの声を聞きながらバロンは思う。こんな殊勝なアレックスは初めてだった。きっとこれは彼にとっても挫折の一つだったのだろう。
「だからこそ彼は更なる高みを目指すべきだと考えた。カノーネなどに収まる男ではない。音楽の真髄を目指せる人間だ。或いは世界で初めて」
Why。そこまで聞いたバロンの口から言葉が漏れる。
「なら何で………」
「言ったろ、カノーネに収まるべきではないと考えている。音大名誉教授のこれ以上ない賞賛だ。そしてここから、彼は俺と同じ事を言った。ずっと言ってただろ?バイロンには酒が足りない、と。ブルースが足りないんだ」
アレックスはそこで俯いた。暗がりに散らばる足元の資料に目を落として、考えている。でもきっと何を言ったってこいつは止まらないんだろう。バロン・クラウドは工科の人間だ。全ての人間の技術を平均化する。それを幸福として彼は行動する。足のない者には足を作る。見えない者にグラスを作る。ランドマリーの発展はそうやって紡がれてきた。魔法があり、モンスターの闊歩する世界で、彼の祖先は魔法の代わりに人々に銃を手渡した。魔法を拒否し、人が人として生きる、それを国是として発明を繰り返したこの国の根幹を成す思想である。
「バイロンの音は美しすぎる。完璧すぎるんだ。血の滲むような研鑽を積んだのだろう、けれどそこに感情が乗ってない。いいか、バロン。アズレファンの湧水地で汲んだ水と精製水、どちらを飲みたい?みんなアズレファンの湧水を好んで飲む。犬の小便が混ざっているかもしれないのに、それをありがたがって飲むんだ。逆に精製水はどうだ?誰も手をつけない。純水はそれだ、一切の不純物を取り除いた水分なのに、みんなは精製水を工業用品だと思い込む。あいつの音楽は純水なんだ。だからアルコールを混ぜなきゃいけない。俺がブルースを聴きたいと言ったのはそれだよ、危ういんだ」
バロンは言葉を探している。何かを発そうとして唇が開き、出てこないから頭を抱える。その様を見ながらアレックスはこの先、バロンが言う事を理解していた。それでも。それでも彼はアンプを作るだろう。そしてアレックスは、バロンを評する言葉を自分の中に覆い隠した。バロン、お前はバイロンじゃない。お前がどんなに憧れても、どんなに羨んでもバイロンの純粋さに届くことはないんだよ。
「それでも」
バロンは言った。わかっていた答えに安心したアレックスが小さく微笑んだ。
「俺は作るよ。あいつの為に作る。あいつのためだけに」
バロンの答えを聞いて、アレックスは小さく何度も頷いた。Yeah、と呟きながら。
息を吸ってアレックスが立ち上がった。偽りの、お得意の笑顔を作る。
「元気そうで安心した。飯は食えよ、頭を回すにはまずエネルギーだ。食い物ぐらいは奢ってやる、酒場に顔を出せよ」
いつもの、余りにもいつものアレックスの声を聞いたバロンの頬にも笑みが乗った。
「そうするよ。シャワーも浴びなきゃな」
鍵のかかってない扉に歩くアレックスの靴音を聞きながら、バロンは言った。
「アレックス。ありがとう。感謝してる」
扉の前で振り返ったアレックスが、あのチャーミングな緑色の目を向いて笑顔を作った。やっぱり最後は皮肉で締める。彼はそういう男であるから。
「せいぜい頑張ってくれ、ブルーカラー」
足早に扉の前を辞したアレックスの背中に向かって、電子回路の辞書を投げつけたバロンが大声で叫んだ。
「次の選挙じゃリヴェールにはぜってえ入れねえからな!覚悟しとけ!」
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