第15話 summer end 5
ロックウッドの春は静かだ。
各学部の学生は年2回の試験の一つをこの春に受ける。一ヶ月半、毎日続くこの試験期間は通称『スプリングデス』と呼ばれるロックウッド大学の名物だ。毎日の積み重ねを忘れない成績優秀者を除いた凡人、或いは学内に於いてコンタミとまで称されるものですら二ヶ月前からこの試験の対策を始める。学生達でごった返していた街の中は閑散とし、深夜の寮では時折発狂した学生の絶叫が響き渡った。代わりに熱気を帯びるのが24時間開放してある幾つかの図書館の自習室。ピーク時は整理券すら配られる深夜の図書館で、バロンもまた物理学の専門書と鼻を突き合わせながら頭を抱えている。ノートに書き出しているのは、自身の弱点と不明な部分、試験対策とは自身の不明を潰すことだ。前期に受けた授業の中で、記憶の怪しいところを書き出した。エネルギーの伝達。コリオリ力や流体力学。軍事工学の歴史、発明について。ロックウッド大学は学生に強い期待と努力を強いる。それは学而にも表れている。
『この門を潜らんとする者は全ての希望を捨てよ。全ての希望を学ぶ為に』
学びとは言い換えれば究極の遠回りであり、知識とは人生の白杖に過ぎない。故に学びには常に絶望が必要だ。全ての希望が潰えてのみ、希望は意味を持って人生に現れる。
スプリングデスも半月が経過した。
数多の学生の達成と挫折の声がようやっとキャンパス内に聞かれ始める。ロックウッドは厳格で知られる大学だ、単位を取れない者は容赦なく留年の憂き目に会う。幾つかのAAAと幾つかのC、そして多くのBという評価でバロンの進級は確定した。半月ぶりに会ったアレックスは無精髭も隠さず、目の下に隈を刻んだままエスプレッソを一気に喉に流し込んだ。
「平均2時間の睡眠でも人間は活動できる、らしい。トニーに聞いた」
疲れ切った雰囲気のアレックスをバロンが笑う。だがいつもの快活さがない。笑った瞬間、脳に詰め込んだ知識が溢れそうになるから、小さなカフェテーブルに伏して肩だけを揺らした。
「どうにか明日は寝れそうだ。明日明後日は試験がない。今だけ心から神の存在を信じるよ。おお、主よ御身の守護に感謝します」
「ファック!俺はまた一週間缶詰だ。政経は項目が多すぎる。生まれを恨むよ、一つに絞ればよかったな」
「軍事外交の単位は取れたのか。俺の判定はCだった、お前に資料を貰えばよかったな」
「政治外交、軍事外交史はAAAだったぞ?俺は。逆に経済数学がギリギリだった。明日も経済だ。貨幣経済は複雑怪奇だ」
顔を上げてエスプレッソを舐めたバロンが潰れそうな瞼をこじ開けてアレックスに問う。
「トニーはどうだ?そろそろマッチョになってるんじゃないか?」
「あいつは今ブートキャンプ中だ。一度だけ携帯機に、助けて、と連絡が来た。武運長久をと返したぞ。俺は愛国者だからな」
また力無い笑いが漏れた。力無い笑いに誘われた午後の緩い風がオープンカフェ『サルバンガス』を吹き抜ける。温度と風は妖精の息吹、眠りの粉だ。二人は沈黙する。バロンはカフェテーブルの上、手の甲を枕にして。アレックスは背もたれに背を預けたついでに、後屈した頭がいい位置に収まった。アレックスの口が段々と開いていき、沈黙はそのまま数分の睡眠に変わる。
潰れた喉が一気に呼気を吸い込んで、アレックスの喉が鳴った。同時に目を覚ました二人は取り繕うように周囲を眺めたり、顔を撫でたりして自身の寝落ちを覆い隠す。アレックスは舌から生まれたらしいから、どんなに眠くても彼の舌だけはよく動く。こんな事を言った。
「そういえば今度の日曜日は音大の試験だ。試験を聴衆の前でやるらしい。音大キャンパスの舞台があるだろう、あそこで」
「バイロンは既に成績優秀者だろ?」
「カノーネ資格者のオーディションらしいぜ。俺は行けるかわからんが、お前はどうだ?行くか?日曜日なら試験も落ち着いてる頃だろ」
眠気の絡みつく瞼を擦りながら、まあそうだな、と彼に答えた。カフェの通りに設置されているポールクロックに目を向けてアレックスが、跳ねるよう背もたれから身を離す。そのまま立ち上がり伝票を手に取った。
「関数の資料の礼だ、ここは俺が持つよ。30分後の試験の合否を祈っててくれ」
立ち上がったアレックスを見送ってバロンは再度、カフェテーブルに突っ伏した。春の穏やかな風が頬を撫でて、白い髪に花びらが乗る。夢心地に記憶の中のバイオリンを思い返す。バイロンの甘やかなあの、セレナーデを。
◇◆◇
日曜日の音大キャンパスは、多数の生徒でごった返していた。一ヶ月の試験を終えた生徒達の最初の娯楽がこれだ。カノーネオーディション。
カノーネ。たった一丁のバイオリンに付けられた名前である。カノーネには神話があった。カノーネの音色は竜を眠らせる。名手が奏でれば季節すら変えられる。悪霊を改心させ、ディアボロを僧侶にさせる、などなど。数々の伝説、誇張と物語に彩られたこの楽器にはもう一つ特徴があった。楽器全般は確かに魔術、術の触媒として優秀である。だが、音の届く範囲でだけだ。このカノーネは兎に角巨大な音を出す事で有名だった。110から120デシベル、大砲の発射音と相違ない音が音階をもって世界に奏でられる。唯一である、という事は応じた責任がそこに求められる。邪な者に渡れば聴衆を扇動しかねない。故にこのカノーネを手に出来るオーディションには非常に厳格な基準が設けられていた。
一つに、成績優秀者である事。一つに生活素行の正しい者。
全ての基準をクリアした6名が壇上にて紹介を受けている。ロックウッド音大生徒総数1万人の中から選ばれた6名の優雅なるコロシアムが始まるのだ。それぞれのパトロン、ファンが集い、彼らに声援を送る。バロンもまた遠巻きに、壇上の黒い華国人を眺めていた。他の五人に興味はない、今あるのはバイロンの栄光と今日の演目への興味だけだ。そんな余裕で彼を眺めていたら、壇上の彼と目があった。バイロンの口の端が引かれて、黒い小さな頭が微かに揺れて会釈をした。
五名の演奏は順当に終わった。いい腕だ、とバロンも思う。特に四人目の女性、エリーズの腕は良かった。女性特有の繊細さに力強さを加えたバランスのいい引き手だ。だが。とバロンは思う。ただ弾いたってあいつに敵うわけがない。
そして彼の番がやってきた。聴衆は手を叩いて彼の登場を囃した。ミスターカノーネ!という野次も聞こえた。彼が彼の愛機を抱くように抱えて弓を携えた。弓を持った指がバイオリンの弦を弾く。ピチカートが緩やかにステップを踏みながら観客へと広がっていく。静寂は引き抜かれた弓によって破られる。曲名は「謝肉祭」収穫を喜ぶ農民達を祝福する楽曲だ。
目を閉じたバイロンは既に彼自身も楽器の一つだ。長く美しい髪が弓の動きに合わせ流れる、静かな始まりからやがて笑いさんざめく力強い音が彼のバイオリンから流れ始める。教授陣がその技術に目を向く、見事なトリル、音の強弱。繰り返される主題に誘われて観客の肩が揺れ始めた。謝肉祭はコケティッシュな曲だ、シンプルで美しい。けれどもシンプルであるが故、完璧に奏でるには凄まじい技巧を必要とする。ピチカート、スピッカート、マルトレ、次々と変更していく演奏技術と音色、流れるようなワルツの中で奏でられる音の渦、そこに小さな笑いが生まれ出す。幸福だからだろうか?満ち足りているからだろうか?マルトレの音量に彼の上半身が揺れる、揺れて止まる、そして静止して流れる。彼の音楽の中には既に聴衆の笑い声がある、喜びがあり、反抗がある。老人や権威者達の舌打ちも含まれている。全てが彼によって作り上げられる一時の叶え難い幸福の時間。しかし。
突然、彼の演奏が止まった。聴衆達もそのスウィングを止めて壇上の彼を見上げる。壇上で体を捻った彼は、首元のバイオリンを見ていた。弦が切れている。残念そうな声が聴衆の中から聞こえ始めた。替えのバイオリンを急ぐスタッフを制して、バイロンは弓を構える。そして言った。
「
曲が奏でられ始めた。先ほどよりは更に早く、更に優雅に、更に熱狂を伴って。目を見開いた聴衆達がとうとう歓喜の声を上げた。唯一残ったGの弦を弾きながら、ワルツの速度を上げていく。低い主題は一切の変更なく奏でられる。聴衆の頬に驚きと熱狂を届けながら。
なんてこった。遠巻きに彼の演奏を聴いていたバロンが呆れながら笑う。なんて奴だ!拍手が湧き起こる、足が踏み鳴らされる。モッシュが形作られ大きな渦を会場の真ん中に出現させた。更に早く、更に大きく、彼自身も音楽に酔いしれ体を捩りながら音楽に身を委ねる。そして全てのコードを滞りなく演奏した男が、最後の一音を引き抜いてそのまま手を広げて礼をした。豪雨の様な拍手と指笛、そして口々に彼の名前を叫ぶ声。バイロン!バイロン!バイロン!聴衆に手を振り、壇上を降りた彼に女生徒から絶叫がかかる。行かないでバイロン!熱狂を苦々しく見つめる教授陣が、静寂と静粛を求めて生徒達に自粛を勧める。だが収まらない。数十分の空白を置いて、壇上に再び精鋭六名が上がる。モッシュに疲れ果てた聴衆達から再び拍手が巻き起こる。皆信じていたからだ。バイロン・クーパー。カノーネ有資格者。歴史に残るマエストロの出現を皆が確信していた。
数分の審議を経て、結果が発表された。
カノーネはバイロンの手をすり抜けて、エリーズ・ボナパルトへと渡された。
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