第14話 summer end 4
雪の降る季節になった。
バロン、トニー、バイロンは今フィッツ家の別荘、雪深い山奥のペンションで降って沸いた休暇を楽しんでいる。書店前の大乱闘の責任をそれぞれが負ったからだ。バロンは一週間の謹慎とレポート形式の反省文、トニーも一週間の謹慎及び、上官からヤギ泥棒のミッションを課された。謹慎中に作戦の立案、準備を整え、謹慎が解けると同時に任務に赴く。失敗すれば謹慎処分は更に伸びるが、このミッションを言い渡される事それ自体が軍科に身を置く者のステータスでもある。
別荘の主であるアレックスといえば、口頭での厳重注意に収まった。殆ど乱闘に参加していない事も理由だが、それ以上に彼の舌先が彼を実に優位に誘った。争った相手が金持ちの子弟、また法科所属の生徒であるにも関わらず彼がほぼ罰則を受けなかったのは偏に彼の弁論によるところが大きいだろう。法科の教授達が揃って舌を巻いたという、彼の自己弁護。ペンションに併設してあるスパを水着と浮き輪で楽しみながら、満月を眺めたアレックスが言う。
「先ず差別というものの実体、その有害性と有益性を説いた。参考にしたのは法学全集とカリヌテスの差別と哲学について。その上で現代に於ける差別の定義と、今回の件の有害性を一時間かけて演説した」
スパのステップに腰掛けて、体を半分湯につけていたバロンが笑う。
「流石だな。事前準備はしなかったんだろ」
「直前まで指導教官が誰になるかわからんかったからな。顔を見て、カリヌテス研究の第一人者だと分かった。それから記憶を頼りに有る事無い事捲し立てた。結果オーライだな、法学面でカリヌテスは冷遇されてる。俺の話を聴く教官の顔が感動に輝く様をみて勝利を確信したよ」
温水プールのそばのガーデンチェアに寝転びながらエールを飲んでいたトニーが呆れ笑いに体を捩った。背中で響いた笑い声を振り返った黒髪の男性、バイロンは口元に静かな笑みを載せている。全員の笑い声が収まった頃合いを見て、バロンの隣に同じ体制で腰掛けていたバイロンが言った。
「感謝してるよ、本当にありがとう」
バロンは彼に流し目をくれて、そのまま首を横に振った。浮き輪に捕まりゆっくりこちらに泳いできたアレックスも目を閉じ彼の言葉を受け取る。トニーだけが言った。
「気にするな、バイロン。俺はお前が好きだ。多分だけど、ここにいる人間はみんなお前の事を尊敬してる」
「俺は機械ならぶっ壊せるが、音は作れない。俺はお前を尊敬してるよ、本当だ」
バロンとトニーの言葉を聞いたバイロンが、沸き立つ湯に目を落とす。沸き立つ湯は音を立てリズミカルに水面に映った月を揺らしている。
「あれは、やはり差別……なんだな。ああいった局面には多く遭遇してきたが、どう対応していいか分からなかった。理解できたよ、差別には乱闘だ、あれが一番後腐れがない」
隣でバロンが吹き出す様に笑い始めた。トニーもまたガーデンチェアの上で、全くだと笑っている。だがアレックスだけは静かだった。彼は静かに温水プールの端からステップまで泳ぎ、手すりに手をかけて身を引き上げた。彼の肉体から湯がこぼれ落ちて、代わりに柔らかな湯気がその白い皮膚から立ち昇っていく。そうしながらアレックスは、バイロンに告げた。とても真摯で静かな声だった。
「バイロン。差別を内面化するな」
温水プールを覆う板間に足跡をつけながら、彼はガーデンチェアの上のバスタオルを手に取り顔を拭いた。次にそれを頭に乗せて流れる湯を吸い込ませる。
「差別を内面化すると自分を憐れむようになる。自分を憐れむな。自分自身で自分を差別するな。そいつは差別の中で一等残酷で有害だ。自分を憐れむと、自分は憐れなので凡ゆる罪は許されると錯覚する。やがて差別に人格を奪われ差別の中で喚くようになる。そんなものはクソだ。幸福とは真逆のマゾヒズムの快楽だ。幸福とは行った事や発言で評価される事だ。お前は神に等しい素晴らしい技術を持っている、そしてそれを行っている。だから俺はお前を評価している。いい奴だしな」
沈黙の合間を埋めるのは沸き立つスパのジャグジーだ。けれどもそれは長く続かなかった。少し照れくさそうにバイロンが言う。
「ありがとう」
「礼を言われる事じゃない。そろそろそんな関係でもないだろう、バイロン。俺は法科の人間だ、システムが人間を矯正する事はあるが、システムは人間を評価しない。俺にとっちゃ、ドラゴンバレーにキマイラを追いやった英雄カーターと、軍人崩れの路上生活者は同じく評価されなきゃいけない人間だ。フラットでなけりゃ、システムという化け物を扱えない。そこいらはバロンがよく分かってる」
「シンプルは化け物だ」
「そう、シンプルは化け物だ」
体を拭きあげたアレックスは水を含んだバスタオルをガーデンチェアに投げ、水着のままオレンジ色に輝く室内へと足を向けた。
「バイロン。お前はもう少し酒を飲んだ方がいい。こいつは俺の好みの問題だが、俺はお前のブルースが聴きたいと思っている」
ブルース、と面白そうに繰り返したバイロンを置いて、室内へ向かう途中、ガーデンチェアに寝転がったままのトニーに声をかけた。
「エールが切れたな、ヘイトニー、荷物持ちをしてくれ。これからバイロンにしこたまブルースの味のエールを飲ませるんだ」
「ゲロの味のな」
バロンの揶揄にバイロンが吹き出した。
「飲みたいか、飲みたくないか、と言われたら飲みたくはないな」
「飲み続けりゃゲロの味もわからなくなるさ。へべれけになって弾くバイオリンは何を表現するんだろうな」
肩が冷えたのだろう、バロンが湯の中に体を沈めおよいでいく。バイロンは場所を動かず肩まで湯に浸かった。目の前には澄み切った青い月が浮かんで見える。徐にバイロンが言った。
「月の光もシンプルだ」
頷きながらバロンが答える。そうだな。月光を浴びながらバイロンが続けた。
「……月の光のような曲を奏でたいと思ったよ。全ての人の心に届くような。日光の様な激しさじゃなく、月の光の様な静けさで人々の心を震わせたい。私の持つ技術がそうあれるなら、それは本当に幸せな事だ」
バロンは答えなかった。何故なら彼にそれは理解できなかったから。そんなバロンを無視したまま、バイロンは月光に酔わされてこんな事を言う。
「月の光に値をつけるなら、それは途方もない額になるだろう?これはとても現実的じゃない話だから、君には響かないかもしれないけれどね、バロン。私は月の光が欲しいんだ」
月の光をバロンも見ている。そいつは掛け値なしの宝物だ、もし月の光を完全に再現できる何かが作れたなら。それは夢想だ、夢想だが何故か人を惹きつける蠱惑的な魅力を持っている。
「月の光のかけらを求めて、私達は技術を磨いている。毎日毎日血の滲むような努力と鍛錬の果て、月の光の欠片だけでも表現できればそれは幸福に違いない、そう信じながら弓を持つんだ。まるで祈りだな、信仰なのかもしれない」
「幸福は」
バイロンに顔を向けたバロンは、月を見上げる美しいバイロンを直視した。彼は美しい。美しい、と言う事をバロンは理解していない。
「人に評価される事だ、さっきアレックスも言ってたろ?」
「……少し違うんだ、バロン」
「祈りは毎日行うだろう?今日より明日、明日より明後日。一日ずつ自分が自分を超えていく感覚が心地いいんだ。だから私の技術は自分からの評価も重要な因子なんだよ。人からの評価は、あまり重要視していない。何故なら私はバイオリンの音色そのものに愛着を感じているから。バイオリンなんて究極的に言えば、聴いていて楽しい、弾いてて楽しい、それだけでいいんだ。でも、それに付加価値が加わってしまうと資本になる。資本になった月の光は私たちには紛い物だ、それは月の光じゃない。六ゴールドに変わってしまう」
「六ゴールドは人を生かす」
バロンは答えた。これは彼の父親から教えられた、彼の人生の支柱でもある。
「たった六ゴールドでも、それはパンに変わる。ワインや、エール。衣類や女への花束に。幸福は一つじゃない」
バロンの決意に満ちた言葉を受けて、バイロンはそうだな、と呟き俯いた。バロンといえば、手に入らない月の光にその青い瞳を向けている。月の光を捉える。そいつは夢想だ、とバロンも思う。けれどもその夢想を超えて努力を行う行為自体に、その透徹した精神性に、そこに至る安らぎを想像して、彼はバイロンを羨ましいと感じた。それは決して自分には届かない、作り出せない世界だったから。
「まぁ、そうだ。……その、言いたい事は、これはブルースになるんじゃないかって事なんだよ」
バイロンの少し無理をした明るい声に絆されて、バロンも笑った。少し意識がふわついている。のぼせたか、と感じた体がスパのステップへと流れ出した。
「ブルースだな。結構高尚な類の奴だ。酒で流すには惜しい」
そう答えて彼もステップを上がった。澄み切った冬の夜、男達の肌からは白い湯気が立ち上っている。
「そのブルースを何で奏でるんだ?今のストラディバリウスじゃ役不足だぜ?」
向かうのは室内、先行したアレックスの足跡を踏みながら歩き二人は話す。オレンジ色に輝くガラス越しの室内では、トニーとアレックスが買い込んだエールの段ボールを開いてビンを取り出していた。
「音楽科の成績優秀者に、一定期間カノーネというバイオリンが貸し出される。それで曲を作るよ、いい音が出るらしい。私も楽しみだ」
決まった様なもんじゃないか、と背中越しに答えてバロンが室内へ続くガラスのドアを開けた。アレックスとトニーの声がまず大きく聞こえてきて、その合間に酒盛りを彩るエールビンがぶつかる音がする。次々と取り出されるエールビンをそれぞれが片手に携えて、各々のゲロの味を知るために喉に流し込む。青年達の酒盛りは続く、季節を超えて関係は強化される。そして春。学生達の最初の試練、一ヶ月の試験期間が始まりを告げた。
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