第13話 summer end 3

 学生生活は満ち足りたものだった。


 工科所属のバロン・クラウドは仕送りを受けながら男子寮で暮らしている。授業の合間を縫ってバーテンのアルバイトも行った。仕送りは少なめに渡されてある、クラウド家の家訓らしい。必要より少し少ない生活をしろ。苦学生達に混ざってアルバイトをするバロンを時々、アレックス達が笑いに来た。


 アレックスといえば何不自由ない生活をしている。


「俺の仕事は今から始まっている」が彼の口癖だ。彼は兎に角交流をした。パーティーがあると聞けばすっ飛んでいく。呼ばれなかったパーティーの関係者とは積極的に関わった。口裏合わせと手回しのダシに、バロンとトニーを利用して次のパーティーでは必ず呼ばれる細工をした。


「一人二人でいい。交流が欲しいんだ。人脈の為には時間を惜しまん」


 ブッキングした場合はどうするんだ、とバロンが笑いながら彼に聞くと、


「贈り物と託けを。金も挟むと印象がいい。男も女も口説かれるのは大好きだからな」


 昼は法科と経済の科目を修め、夜は社交に飛び回る彼のあり方を、バロンは好ましく思っている。酒で体を壊すなよ、と笑ってやると、


「酒は呑まずに越した事はない。失言ほど美味い収穫はないからな」


 と返ってきた。だから、学内の有名人達の失言の幾つかを、彼からこっそり教えてもらった。


 トニーとはあまり顔を合わせなかった。各種マーシャルアーツとトレーニング、兵法と軍法などの座学に大忙しで飯を食う暇もないらしい。心配ではあったが、アレックスから時折彼の様子は聞いていた。少し痩せた事と、陰謀論に騙されなくなった、という朗報も聞いた。次に会った時は、もう少し精度の良い陰謀論を吹き込んでやろう、とバロンは企んでいる。


 そしてバイロン。彼のバイオリンは瞬く間にロックウッド学園都市全域に知れ渡った。様々な人達が彼のバイオリンを求め、聴衆はその音に酔いしれた。それを強力に後押ししたのがアレックス、かねてから交流のあった裕福層の子弟を中心に彼のバイオリン独演会を定期的に開催している。それぞれの目的の為、四人の青年は全力でその青春を謳歌していた。だが青春とは往々にして打ち壊されるものだ。運命の一撃が最も好む物が青年の懊悩と叫びであるが故に。


 久々の休日だった。


 書店の前でトニーを待つバロンが呆れた顔で腕時計を確認する。もう30分近く書店の中に入りっぱなしだ。とある作家のサイン会がある、一人で行くには勇気がないから着いてきて欲しい。子供じみた依頼だが、バロンやアレックスは、そういうトニーが好きなのだ。思いっきりバカにしてやろうと着いていったら、世界的な漫画家であるバイヤード、彼の代表作であった『ダンブルウッド』の最新31巻、発売イベントだった。


「ガキの時分には夢中で読んだな」


 と不貞腐れた様子のアレックスが言う。書店前の街路樹を支える支柱に尻を乗せ、遠くから書店を眺めていたバロンの足元には、積もる枯葉に混じった抗議の吸い殻がいくつも転がっていた。


「何巻までだ?俺、29巻から読んでねえや」


「俺は30までは読んだぞ?今だに描いてるとは知らなかった」


 そこからまた静寂だ。二人の様子を伺っているのは、バイロン。切長の目をさらに細めて、書店を眺めている。彼の様子に気づいたバロンが声をかけた。


「なんだ?バイロン。お前もファンかよ。行ってこいよ、まだ在庫はあるっぽいぞ」


「いやよく知らないんだ」


 彼の纏うコートの生地も厚くなった。秋風にその射干玉色の髪を揺らしながら彼は答える。


「書店には楽譜を買う目的以外で入ったことがない。ダンブル……、名前は聞いたことがある。でも両親がコミックを許してくれなかった」


 ああ、とバロンは思い出した。バイオリン漬けの生活。その話ももうアレックスと共有してある。だからアレックスが答えた。


「ではバイロン、正しいダンブルウッドの読み方を伝授しよう。トニーが出てきたら全力で本を奪え。そして誰よりも先に中身を確認しろ。他は知らんがこれが俺達の法律だ」


 目を丸くしてアレックスを見たバイロンはその後そのまま笑顔になった。全く君達は、と彼が言葉を続けようとした時、書店から大事そうにコミックスを抱えたトニーが浮かれた足取りでこちらに歩いてくる。それを見つけたバロンが、


「作戦開始だ」


と宣った。


 トニーに駆け寄ったバロン及びアレックスは、感動に酔いしれるトニーの腕からコミックスを奪い取る。突然の強襲に焦ったトニーが、ちょっと待て!と絶叫する。一頁目を開いたバロンが言った。


「ふざけんな。俺は最近、『ノイマン』(科学雑誌。主に工学に関する論文を載せた専門書)しか読んでねえんだぞ!」


「だったらお前も買えば良いだろう!自身の好悪を隠し取り繕うのは臆病者のやる事だ!」


 トニーの伸びた腕を避けて、バロンはダンブルウッドをアレックスにパスした。受け取った彼は、適当なページを開きそこを読み進めている。


「臆病者、大いに結構!俺の行く末は、読みもしないワールドクロック(新聞)の経済欄についてしたり顔で議論する生活だ。カブーン(コミック雑誌)を抱えていれば人間と見做されない。だから最近は法学書とハイエク(経済雑誌)しか読んでない。ハイエクとチャーチル(政治論文雑誌)にこんな面白いコミックスが掲載されてると思うか?ふざけるな、娯楽め!ファック!めちゃくちゃ面白いじゃないか!」


「よく見てくれ、バイロン!これがブルジョワによる搾取だ、魂に刻めよこの政治屋め!」


「俺に向かってブルジョワを説くかよ、軍人。ブルジョワが存在するかしないかでいえば存在はするが、本物の害悪はプチブルだ、なんなら目眩がするような経済論文を今ここで貴様に浴びせてやってもいいぞ、トニー!クソが!面白い!俺達が呻きながら面白くもない他人の成果物を査読しているのに貴様は!なんなんだ!オウ!ダンブルウッド!お前が選んだ結末がそれか!」


 喚き散らすアレックスと戸惑うトニーを見比べて、とうとうバイロンは腹を抱えて笑い出した。


「よし、トニー。俺の店へ来い。今日はダンブルウッドのスモーキー、あれが工学的に再現可能だって事をお前に教えてやる」


「いいや、待て待て俺の番だ!ダンブルウッドの売り上げが世界に齎す経済効果と、作中の政治的意図について教えてやるぞ、ダンブルウッドに関する都市伝説だ、お前は必ずエレクトする!」


 どうでも良いよ、ふざけるな!返せよ!と騒ぐトニーを見ながら笑っていたバイロンの肩に何者かがぶつかった。よろけた体を正し、込み上げる笑いを抑えながらの謝罪だった。「すみません」と断った彼を高い位置から見下ろした金髪の紳士が、彼の黒い髪とその風貌を見て、眉を顰めて呟いた。


「邪魔だな、カーチー」


 バイロンから笑顔が消えた。何もない表情を見せてその金髪の紳士に向き直る。抵抗の意思を受け取った金髪の紳士はその嗜虐心を加速させ、彼の眼前に嘲りを積み上げた。


「端の方で喋っててくれないか。華国人は五月蝿いからな。親父が親父なら息子も息子だな」


「すまなかった」


 背を正して、低い声でバイロンは告げた。


「貴方の進行を邪魔してしまった、申し訳なかった。だがそれに父親の話は関係がない」


「関係ない?」


 金髪の紳士はバイロンに詰め寄る。彼の後ろに数人の男性の姿が見えた。口元に侮蔑の笑みを浮かべゆっくりと彼に近づいている。


「俺は法科の人間でな。未成年を拐かして妊娠させた性犯罪者の息子は矢張り裁かれるべきだと思っている。世界的なバイオリニストだろうが関係ない。犯罪は犯罪だ」


「私は犯罪など犯していない」


「そう、お前はな?だが遺伝子はどうだ?関係ないか?悲しい事に、性犯罪というものは遺伝するらしい。犯罪を未然に防ぐには、遺伝子から罰するべきだがその法律がまだこの世界にはない。世界は公平を期すべきだと思わんか。俺は思う。だからまあ、お前への言動その他は許される物だと俺は考えている」


 金髪の紳士は手を広げ大きな声で聴衆へと宣言した。


「紳士淑女諸君!彼は世界的バイオリニスト、ニコロ・サンスの次男だ!あの、未成年を妊娠させた性犯罪者の息子だ!同じ事をするぞ!カエルの子は所詮」


 カエル、と言いかけた金髪の紳士の頬が潰れた。トニーの拳が、彼の横っ面を殴り抜いたのだった。倒れた紳士の前に仁王だったトニーは、怒りに震えながらこう叫んだ。


「カエルではない!我々の友達だ!」


 そこから大乱闘が始まった。バロンとトニーは相手数人に大立ち回りをし、止めに入ったバイロンは突き飛ばされた。倒れたバイロンを助け起こしたのは、恐ろしく冷たい目をしたアレックス、その冷静さをバイロンは錯覚したのだった。


「アレックス!頼む、憲兵達に連絡を!」


「ヘイ!バイロン!」


 二、三発殴られて頬を腫らし、唇の端を切ってしまったバロンが、金髪の紳士の首をロックしながらバイロンを呼んだ。


「一発お見舞いしてやれ!」


 二の句が告げなくて、アレックスにあれを見ろとばかりに両手を広げて催促をした。バイロンの目的は報復ではなく、寧ろこの無価値な乱闘の収束だった。今すぐにでも憲兵隊へ連絡をして欲しいバイロンを置き去りにしてアレックスが歩幅も鋭く、バロンのヘッドロックに苦しむ金髪の紳士の側に歩みよっていく。そしてその顎に強烈なアッパーを喰らわせた。


 お前じゃねえよ!と叫んだバロンの前で、怒りを発散させたアレックスが拳を振り上げ周囲に叫ぶ。


「We!are!ダンブルウッド!」


 アレックスの様を見たバイロンがとうとう、おお、神よと顔を伏せて笑い始めた。

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