第12話 Summer end 2

 バイオリンの顎当てに彼の細く白い顎が添えられる。その小さな楽器を抱き抱える様、黒く長い腕が伸びる。滑らかに指が弦を支える。広い額を避けた長髪にも、飾り気のない黒い背広にも、このパブの柔らかい照明が反射して鈍く輝いている。黒い調律、その静止が段々と周囲へと波及し、パブの中が一瞬静かになった。

 始まりは恐らくE、それが高く飛んで鳥の声になる。空中で音が揺れる、軽やかに流れる。アルコールに沈むロックウッドの学生街にあるパブは今、潮風の香る早朝の古都へと変貌した。


 鐘だ、とバロン・クラウドは思った。鐘が鳴ってる。それは多分、部屋の窓から見えるだろう高い時計台の鐘の音。それが鳴ったから朝が始まった。鐘は前後にその重い体を揺らしながら人々に一日を教える、街の通りを誰かが駆けていく、自転車に乗っているんだろうか、それとも坂を必死で駆け降りているんだろうか。高い時計台から街を見下ろす、潮風の吹き抜ける街の通りに、人々が顔を出して話を始める。ボン・ジョルノ!人々の生活が始まって、それを眺めた鳥が高く高く鳴きながら空へ登っていく、高く、高く、高く……。

 一日が始まるのだ、希望に満ちた一日が。時計台の鐘はまた力強く鳴る、全ての生活を内包して鳴る、負けてしまった夜を呑んだ酔っ払いにも、愛を囁く恋人達にも分け隔てなく鐘の音は降り注ぐ、日光の様に。


 ワオ。自分が何処にいるのか、バロン・クラウドには判別できなかった。足が地についていないような気がした。ワオ。言葉が出てこない。でも頭の中は何かが凄まじい勢いで回転をしている。何処で読んだかわからない詩の一編が浮かんでは消え、消えては浮かんでくる。同時にまるで幻影の様に、海辺の古都の情景がありありと彼の脳内に再生された。なんという激痛をあの四本の弦は表現するのだろう!そこには幸福が詰まっていた。自分の母親ではない母親が、笑顔でパン粥を作る姿、知らない友達、知らない風景、それはあたかも自分はそうやって生きてきたのだと言わんばかりの臨場感で再生される。それはメランコリーの痛みを伴って、自分の過去に手を添えて傷を癒す。喉の奥から感情が湧き上がるのを感じた。長いまつ毛をはためかせて周囲を見渡したら、呆然とした表情のまま涙を流す女性の姿が見えた。


 鐘は鳴り響く。日は高くなる。希望と喜びの一日が始まる。或いは義務と労働の、愛と贖罪の、そんな人々を見下ろしながら鳥が舞い歌う、高い声で生命を喜びながら。鐘のフレーズは繰り返され、転調とリズムを変えながらパブの中を舞い踊る。人々が街の中を走り回る、笑いながら、怒りながら。やがて街には夜が訪れ少女の枕元で夢が始まる。儚いピチカート。夢は弾け、それは恋人達の睦言に、ならず者の嘆きに、そして王族の安らぎになった。そしてまた朝が始まる。鐘の音の主題が繰り返され、全てを祝福する。四本の弦から繰り出されるも何かは間違いなく幸福だ、とバロン・クラウドは断じた。これは経験のない幸福だ、この演奏の中でのみ感じることを許される幸福。生きていて良い、という寛容、赦しがそこにある。生まれた事の歓喜がそこにある。けれどもその幸福は永遠には続かない。また鐘の音が強くなる、恐らくこれがクライマックスだ。


 黒い男は体を揺らしながら、バイオリンと一体になって幸福を歌っている。彼の長髪が流れる、目を閉じ身じろぎしながら幸福を作り出す。音は力強く大きくなった。幸福を砕く金切り声が空から降ってくる、けれどもそれを信じて良い、そう結論づけて演奏は終わった。息を吐いた男性は両手を開いて聴衆へと頭を下げる。


 怒号の様な歓喜がパブを包んだ。豪雨のような拍手から始まり、指笛が合間に聞こえ、その場に居た全員が立ち上がり惜しみない称賛を彼に送った。ブラボー!至る所から声が聞こえる。黒い長髪の華国人はその時やっと微笑んだ。舞台に登ってきたのは女性と数人の男性。彼らと抱き合い、ありがとう、と声を掛ける。その男の姿を呆然と眺めていたバロンに、隣のマリアが声を掛けてくれた。


「バロン?ねえ、大丈夫?」


 やっと帰ってきた様な心地がした。けれどまだ夢心地だ。あれは現実だったのか、それとも彼の玄妙な魔法にしっかりと騙されてしまったのか。掠れた声で、ああ、と返事をする合間に、人の波をぬって黒いスーツが近寄って来る。低く静かな声が聞こえた。マリア、ありがとう。聞いていてくれたんだね。頭を振って顔を上げて彼を見た。自分より少し背の低い長髪の男性が、マリアを抱きしめながら視線を自分に寄せている。何故か緊張した。言葉を探している間に、マリアが彼の腕の中から声を掛けた。

「バロン・クラウドよ、バロン、彼はバイロン・クーパー」

「初めまして」

 さっきまで弦を抑えていた長い指をまとめて差し出したバイロンの手を、バロンは両手でしっかりと握った。

「バロンだ、すまない。本当に圧巻だった。素晴らしい。オペラを聴いた時だってこんな事にはならなかったのに、クソ!なんてこった!」


 穏やかに笑ったバイロンの手を握ったまま、バロンは彼の腕を引く。


「頼む、友人にも紹介したいんだ、あっちでとてつもなく非文化的なことをやってる蛮族どもだが、許してやってくれ。あんたの演奏を聴いた今なら人の言葉が話せるかもしれない」


 バロンの言葉に笑いながら、バイロンは彼に手を引かれるまま歩いていく。先には既にソファから立ち上がり、拍手を送っているアレックスの姿があった。


「ヘイバロン、この色男め!女どころかマエストロを引っ張って来やがった!」

「アレックス、バイロンだ、バイロン・クーパー」

「初めましてアレックス」

「アレックス・フィッツだ。そこで寝てるゴミがトニー・エンデバー。そいつは忘れろ、音符の入る隙間が無くなっちまう」


 そう言いながら、アレックスは虎の子、持ち込んだフォワ・ロゼスの瓶のコルクを引き抜いた。


「バーテン!グラスを持ってきてくれ!明日の一限目をサボりたいやつには俺が奢る!さあ!出会いの幸福に乾杯だ!」


  ◇◇◇


 ソファの背もたれに頭を乗せて、バロンは揺れる意識を楽しんでいる。全くアレックスめ、飲めない癖に格好つけやがって。主催のアレックスは既に酩酊の泥の中、パブの中に倒れる数体のアルコール溺死体の一つになって眠りこけている。


「嬉しいよ」


 バイロンはまだ体を起こせている。座ったまま、でも幸福に酔った和らげな表情でバロンに言った。


「いつも、生まれは何処なんだって聞かれるから。聞かなかったのは君達が初めてかもしれない」


 揺らぐ意識を手のひらで混ぜる。瞼を手のひらで揉みながらバロンは答えた。


「あんな曲を奏でる奴ならオークでもゴブリンでも歓迎だ。生まれは、セントラルシティーでいい。関係ないね」

華国人かこくじんの見た目はやっぱり色々言われるんだよ、細目、だったり、カーチー呼ばわりされたり」

「言いたい奴には言わせときゃいいさ。俺だってモヤシ野郎だのオカマ野郎だの散々言われた。言ったやつの女は寝取ってやったがな。アレックスは」

 首だけを動かして眠るアレックスに目を向ける。

「七光野郎、親父の腰巾着、売国奴、散々だ。それもガキの頃からお抱えの記者と秘書連中から父親の悪口を聞かされて育っている。ただこいつは心底根性が座ってるからな、俺はこいつが泣いたのを見たことがない」

「昔から?」

「小学校から一緒だ。墓まで持っていく話も幾つかある」

 いいね、とバイロンは笑った。

「私は、友達を作れなくてね。幼い頃からバイオリン漬けの生活だったし、移動が多かったから」


 意識が、途切れそうになっている。バイロンの声も心地いい。静かで深い。夜の様だ。


「これからは、一緒だ……。俺と、アレックス、……トニーと、マリアも…………」


 早朝の学生街のパブのソファの上でバロンは眠る。耳の奥には幸福を奏でる鐘の音が響いて来る。起きなきゃいけないのに眠ってしまう。だから俺から幸福は遠ざかるんだ。ラ・カンパネルラが響いて来る、泥酔者の懺悔すら優しく包みながら。

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