第32話 Good bye 3

 持っていくような荷物もないから、養父母に伝えたのは実に端的な別れの言葉。


 出ていく、と告げた私を養母フェイナは止めなかった。養父レンウィックは、お前を拾ってよかったよ、と嬉しそうに顔を綻ばせた。アレックスからそれなりの額を貰ったのだろう、こいつらがいい思いをするのは癪だけれどもこれで私との関係は切れた。私は二度とこの家には戻らないし、養父母の顔も見ない。馬屋のサンダーレスと老いたレミントンだけが私の後ろ髪を引っ張った。悲しげにいななく二頭の馬の鳴き声を振り切るように足を出して、隣町のアッシュボーンへ向かう。


 アッシュボーンまでの20キロの山道を踏破した。泥だらけの道が、岩だらけの坂道に変わる。バランスをとりながら岩場の道をすり抜けて、山を下ると、段々と森が深くなる。獣道みたいな細い曲がりくねった道をまだ進むと、突然視界が開いて、平たい道路が現れる。時たまそこを車がビュンビュン走っていく。大きな標識にはまっすぐの矢印が描いてある。私は字が読めないから、真っ直ぐ進むしか方法がない。でも多分こっちだと思う。アレックスがくれたメモ、そこに書いてあった字と標識の字は同じだったから。舗装された道を進んでいくと、視界の先にやっと街の光が見えた。家を出たのが朝9時ぐらい。今はもう日が暮れかかっている。街の光を目指してくたびれた体を前に出す。進むしかない。だって私にはもう、帰る場所なんてなくなってしまったんだから。


 舗装された道路は、やがてアッシュボーンの入り口にある円形の大きな道路に繋がった。右側を馬車が走っていく。左側を車が走っていく。そして馬車の隙間に私が歩いている。やがて私はその円形の真ん中に位置する大きなモニュメントにたどり着いた。モニュメントの足元には大きなライトが設置してあって、夕闇の中のメタトロンキューブを照らしていた。光を受けたメタトロンキューブがゆっくりと回転しながら、光を反射してキラキラと輝く。足が痛くて歩く気が起きなくなったから、口を開けてそれを見上げた。空腹と疲れを紛らわすのは何も考えない事。その何も考えない状態を維持するのに、このメタトロンキューブの光はちょうどよかった。虹色に光る。キラキラ。とても綺麗。呆然と佇む私の後ろをまた馬車が通り過ぎる。そして蹄の音が少し奥で止まった。私はまだ光に魅せられていた。声が掛かる。ミス。


 振り返る。そこには私が知っていた中で一番の金持ちだったメアリーが持ってた人形みたいな男がいた。撫で付けられた真っ黒な髪はオイルとメタトロンキューブの反射でキラキラと色を変え光っていた。モノクルを片目に、線で引いたような執事服を着てる。顔は三角、すらっとした神経質そうな風貌の、それでも美しい顔をした男性だ。彼の醸し出す雰囲気そのものが、律されていた。1ミリだって埃を立てない、着ているものに毛羽だった場所はない。靴の爪先まで真っ黒でとんでもなく清潔だ。


「初めまして。私はバーナードと申します。ミス・ローズを安全にアレックス様の滞在先へとお届けするよう申しつかっております。お疲れでしょう。こちらへ。先ずはホテルへとご案内いたします」


「ホテル?」


 私が声を上げると、彼は正確に質問に答える。私が聞いていない事まで答える。そういう役割の人なんだろう。


「先ずはホテルにて心身の清潔を。それから医療的な検査の幾つかを受けていだたきます。アレックス様のお話だと、恐らく各種予防接種を受けてらっしゃらないと」


 ああ、と喉を鳴らして言った。「そうね、生まれてからずっと働いてた」


「こちらへ」


 バーナードは手を開いて、高級そうな馬車の扉を開けて私を待った。口をへの字にして息を吸う。なんだかこそばゆいし、泥だらけの私がこの宝石箱みたいな馬車に乗っていいものかどうか迷ったけど、仕方ない。なるべく泥をつけないよう、慎重にコーチに乗り込んだ。でも泥道と山道を歩き続けた靴の底は、コーチの足掛けに特大の泥を擦り付けてしまった。


 ◇◇◇


 それから天まで届くような巨大なホテルに連れて行かれて、そこの最上階に案内された。中で待ってたのは三人の女性。今から貴方を磨き尽くしてあげるわね。そう言って微笑んだ太めのおばさん達に、私は浴槽で二時間近く揉み洗いされた。シラミだらけで痒かった頭はスッキリしたし、初めて櫛って物を使った。全身をオイルだかクリームだかでマッサージされて、私は自分が味付けをされてるチキンの様な気分になる。私、食べられるの?とおばさん達に問うと、全員が楽しそうに大笑いした。


 それから夕食。バーナードが夕食の献立を聞きにきたけど、なるべく質素なものにした。何もかもが初めてで胃がびっくりしちゃってる。そんなに食べられないわ、そう彼に告げたら、柔らかくて空気を食べてる様な甘いパンと、口の中で解けてしまうバター、それからスープ仕立てのチキンを用意してくれて、私は結局それを綺麗に平らげてしまった。ベッドはふかふか。雲の上みたい。三人のマダムが用意してくれた薄手のネグリジェに着替えて、私はそこに飛び込む。吸い込んだ空気から自分の汗の匂いがしなかった。垢の匂いもしない。少し寂しい代わりに私を包むのは薔薇の香り。私の名前の香り。私は私の名前に包まれて眠る。頬に触れる自分の髪からも薔薇の香りがする。なんて心地いい。そう考えるまもなく眠りについた。


 次の日、マダム達に起こされて朝食をとって、それから髪を切った。鏡の中の自分は、見たことがないお嬢さんになってて戸惑った。やっぱり若いから肌艶も髪の質もいいわね。髪を切ってくれたマダムが鏡の中の垢抜けた私を見て嬉しそうに笑う。何故、貴方が嬉しそうなの、そう質問をしたら、笑いながら彼女はこう返した。


「貴方が美しいから。私の技術で、貴方はこんなに美しくなったのよ。自慢だわ」


 彼女の言葉を受けて、私は鏡の中の自分を見た。確かに、照れくさいけど泥まみれの私よりずっと美しい。それは私の心を、ずっと頑なだった私の心を確かに高揚させた。その時、彼女に言わないまでも私は誓った事がある。自慢できる何かをしたい。自分を誇れる自分でありたい。自分自身が納得できる自分で居続ける事。それはきっと鏡の中の美しい自分をそのまま留めおく行為なんだろう。だからその後の、ファッションショーにも熱が入った。マダム達が部屋の中に持ってきた何種類もの衣類を、納得できるまで何着も試着した。結果、数十着の服から靴、装飾品やバックを手元に置いた。お金が少し心配だったけど、私の手の中にはアレックスの1億がある。けれど、バーナードもマダム達も、既に料金は支払われている、と私に断った。この服の料金も?!と声を上げたら、バーナードが静かに答える。


「ええ。アレックス様、バロン様、トニー様からの贈り物だと理解してくだされば」


 世の中には理解を超えた金持ちがいるものだ。やっぱり、と私は思い返す。ベントンの説は一部合っている。きっと金持ちは、お金を少なくしたがるのだ。私には全く、理解できないけれど。


 それから、部屋にお医者様が来た。エルムクリーグで私を誘った60過ぎのヤブ医者みたいな、細身でいやらしいジジイじゃなくて、恰幅のいいメガネをかけた優しそうなお医者様だった。お医者様は検査をして、目を見たり脈をとったりした。それから幾つかの注射を打った。私は鋭く光る針の先を見て心底怖くて暴れてしまった。太っちょのマダムの胸に顔を埋めて針の先を見ない様にして、やっと何本かの接種を終えた。ついでに取られた血液のサンプルを私は恨みを込めた目で睨んだのだけど、無様な私を責めることもせず、そのお医者様は優しい声で、私にこう語りかけた。


「特に大きな疾患もない。予防接種もほぼ済んだから、アレックスに受け渡していいだろう。君は実に健康だ、ローズ。これから魔術医が君のマナの健診を行うから、この場で待機している様に。アレックスによろしく言っておいてくれ」


 そう言いながら立ち上がったお医者様の白衣の裾が翻って、大きなカバンの中に色々な道具を詰め込んでいる。お医者様の後ろにはツンと澄ましたナースが立っていて、彼女がバーナードと少し話をした。涙で滲む目をこすりながら、痛みの無くなった注射痕をさすっていると、マダム達とバーナードが部屋を出ていくお医者様に深々と頭を下げている。頭を下げたマダムの姿を振り返り見て、私もそうしなきゃ、と頭を下げた。自分自身が納得できる自分である一歩は、多分このマダムを真似ることだと私は考えた。頭を上げると、優しい笑顔のお医者様が私に向かって手を振っている。ほら、やっぱり。私も微笑んだ。いいことを真似ると、きっと素敵な事が起こる。


 それから数時間して、部屋にやってきたのは若いメガネをかけた男性だった。彼もまた清潔で人当たりが柔らかくて、そして笑顔が素敵だった。私はとても不思議だと思う。あの家からみる町はいつも薄汚れていた。他人は、信用するものではなく、疑ってバカにするものだった。でもここにいる人たちはみんな私の事をバカにしない。バカにもしないし、疑わない。暴力だって使わない。こんな世界もあるんだ、と黙って忙しない彼の記録を眺めている。彼は私の周囲にコイルを掲げて、何かの反応を見る。音叉を近づけたり、爪に先に電流を流したりもした。どの検査だったか覚えていないけど、突然彼が一瞬だけ記録の手を止めて、訝しげに私を見た。私も同じ様に彼に返した。彼は言葉を発さず、一度メガネを掛け直して、再度コイルの微調整をしている。丸い水晶の上に手を置く様に言われて、そうした。また彼が黙り込んで、帳面に記録をする。そして私の目をみて、彼は真剣にこう告げた。


「ミス・ローズ。君はイレギュラーだ」


 彼がその答えをどうやって得たか知らない。でも、私はそれを知っている。


「君のマナは非常にレアな波動や振動を持っている。このマナはね、その、……言いにくいが本来生まれていない存在の物なんだよ。こんな数値を僕は見た事がない。無自覚かもしれないが、そのうち何かしらの魔術を使える様になるかもしれないね」


 それから彼は沢山の励ましを私にくれて、ノートに記録した沢山の私の記録のコピーを取った。束になった資料をアレックスに渡す様手渡されたけど、私には何が書いてあるか読めやしない。でも、一つだけわかる文字があった。これだけはわかるの。生まれてからずっと聞かされてたから。私はその文字を指でなぞる。その文字だけ綴りも、読み方もわかる。StarとWormwood。星とニガヨモギ。

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