第7話 Flash To Flash

 化け物達から逃れ距離をとった少年二人は、同時に教官達から告げられたある訓戒を思い出す。


 ———先ず逃げよ。


 大神恵一は、異形に対し5メートル程の距離を取った後、その場に座した。崩し胡座で先ず印相を結ぶ。首筋の傷には歌を詠んだ。


 我を待つと君がぬれけむあしひきの山のしづくにならましものを


 詠んだ和歌に雫が呼ばれて、大神恵一の肩に降った。マナを含んだ和歌は術になる。現れた雫が膜になって出血を止める。同時にうたいを発動した。

 倭国の術師にとって、謡と陣は基礎中の基礎である。特殊な発声法で、呪と謡を両立させる二重発声の妙技だ。


黄天おうてんに座す! (如是我聞にょぜがぶん)」


 全自動で流れ始める経文の中で陣を張る。足の印相はまま、右手にて光輪印、左手にて月相印、既に黄天は組んだ。それはつまり世界への宣言だ。八百万の神々に申し立てる、今この場所は世界の中心である。


 ———武の本質は逃走にある。野の獣、魔物、怪異に至るまで、逃げるものを負うは外道の業である。


「されば血の道、深山の内も、めでたき行者のおちこちに、侍り控える五坊の輪より (復有名月天子。普香天子。宝光天子。四大天王)」


 天地を自在に乾坤するなら、陣の内は自在に変更する。大神恵一の呪と謡に呼ばれた様に、彼の前後に憤怒の面相をした金剛力士が構成され始めた。右手の光輪印、左手の月相印を合わせて黄天の下宣言する。


「いづれ百鬼も出でませい、善童鬼ぜんどうき妙童鬼みょうどうき!」


 大神恵一の前後にそれぞれ鬼が立った。前方の異形達を威嚇する様に、前鬼、善童鬼が吠える。


 一先ず陣は張れた。成功と言っていい。後はこの二重発声、二重詠唱を異形共が諦め退散するまで続けるだけだ。スタミナ勝負ではある。あるが、未だ気力は充分、陣を張れた事による安心が更に術を強固にする。やれる。息を細く深く吐いて丹田に気を入れた。混ぜる。腹で混ぜた気を肩に寄せる。首筋、耳の裏に流す。首筋の傷がチリと熱く焦げたが自制内だ。暗い廊下の真ん中で赤い肉の花をゆらゆらと蠢かせながら、その様を見ていた異形の一体が、天高く吠えた後、陣に向かって走り始めた。藤色の女子制服を靡かせ、鋭い爪でその陣を切り裂こうとした刹那である。


 衝撃と音が辺りに爆ぜて、異形の首は右の窓ガラスに打ち付けられた。胴と分たれた首は血飛沫を上げガラスにへばりつき、胴は甲斐もなく崩れ落ちた。善童鬼の独鈷杵とっこしょが異形の首を切り裂いたのである。次いで後方、妙童鬼にも動きがあった。ジリジリ、ギリギリといったノイズ音に近しい方向を上げながら、姉の姿の異形が走り出す。異形の開いた口が後鬼の頭蓋を飲み込む瞬間に鈴の音が鳴った。


 りん


 清浄なる鈴の根は空間を掃き清め悪しき霊、煩悩、不浄を取り除く。円となり広がる周波が異形の肉体を包み、揺らし、そして崩壊させる。


 どしゃり、と異形の肉片が板の間に崩れる音を聞きながらも大神恵一の陣は解かれない。何故なら彼は確信しているからである。奴らは使役、式の一種だ。同じ外見の異形が複数体、出現の不規則性。これらから推測するに、自分達は異形を使役する術師の腹の中に自分から踏み入ったに等しい。多治比。何処にいるとも知れぬ友人を思い出す。悔恨が胸を掠めたが俯く暇はない。大神恵一が凝視する真っ暗な廊下の奥から数十の異形の足音がする。鈴。鈴の音がまた鳴った。背後でギリギリ、ヂヂヂヂと声を上げながら奴らが倒れていく。だがその奥からも足音がする。何十?いや、何百か!予想してしまった大神恵一の印相が微かにブレる。鈴の音が止まり、前にある善童鬼の肩が一瞬震えた。それを笑うかの様に、奴らが廊下の暗闇から顔を出した。


 何十という異形は今や一つの肉塊になって、廊下を埋め尽くし大神恵一の陣に迫る。至る所から涎を垂らし、脳髄に響くノイズ音を辺り一面に響かせながら。


「う、あ」


 恐怖。恐怖に呑まれた大神恵一の陣がブレる。独鈷鈴が落ち、虚空に消える。善童鬼は憤怒の表情のまま倒れて崩れていく。

「うわあああああ!」


 ◇◆◇


 ———逃げるを追うは外道の業。外道を断つは仏の道だ。逃げる自分を追う者には殺意を持って返せ。


 足に縋りついた肉の花を蹴倒して、多治比寅吉は異形と距離を取った。重心を腹の下に落とし込み、目の色を変えた。それは冷徹な戦士への変化である。お前が何であろうとも、今ここで殺す。異形との間合いを読む。読む間に飛びかかった異形に向けて肉体は素早く反応し抜刀した。真一文字を描いて多治比寅吉の打刀が走る。異形は見事首と胴に分かれて板間に転がった。先ず一つ。


 ———殺す、という行為は情で行うものではない。情も介在せぬ反射で行うものだ。反復を為せ、寝ていても体が走る様に。


 何処からともなく現れた二体目の何かを嗅ぎつけた打刀が走る。何故かを考える前に腰を捻り、背後から近づいていた一体を袈裟懸けに切り裂いた。二つ。


 それから多治比は打刀を青眼に構えた。息を吐き周囲の気配を探る。ざわざわと気配が盛り上がる。数は居ろう。しかし関係がない。今彼は、武者学舎で叩き込まれた無我、その境地に自身を追い込んだ。

 多治比の腰にぶら下がる白い鞘には、封の呪符の欠片が張り付いていた。武者学舎に入学した全員にこの白鞘の打刀は配布される。そして決して封を解かぬ様念押しをされる。封が解かれた時、それは学生に身の危険が迫った時。これで自分の場所は知れた。青眼の奥で多治比は考える。円寂えんじゃく先生がそれを教官たちに知らせてくれるだろう。後は生き抜くだけである。


 再度腰を落とした。多治比寅吉は自身の学んだ流派、花鳥月影流かちょうつきかげの型に沿って体を流す。相手は多勢、それを全自動で切り払うには。足の運びに気を使え、刀ではなく扇を持つと思え。膨れ上がる気配を見もせずに、多治比寅吉は刀を扇として舞い始めた。花鳥月影流の体表的な舞の一つである。


「花鳥月影流、五番ごばん鬼物おにもの。———紅葉狩もみじがり


 暗闇の中に潜んでいた異形どもは、その舞に次々と切り裂かれた。目を鼻を喉を、手を腹を足を。多治比は相手を見ていない。気を払うのは足の運び、腕の位置、全身の筋肉を使って静止を行う場所である。息で拍子を整える。思い起こしているのは、先輩たちが刻んでくれる鼓のリズムだ。


 たえず紅葉.青苔の地。たえず紅葉.青苔の地。またこれ涼風暮れゆく空に。雨うちそそぐ夜嵐の。ものすさまじき山陰に月待つほどのうたた寝に。片敷く袖も露深し。夢ばし覚ましたもうなよ.夢ばし覚まし.たもうなよ。


 謡を思い起こしながら、多治比は大神を思った。ああ、大神が居てくれたなら。あいつの二重発声で謡を聴きつつ舞を舞えたなら更に精度が上がったのに。考えても詮ない。腕を振るう。もう死んでいるかも知れない。足を運ぶ。生きていようが死んでいようが、先ずは舞う。舞うて払うてそれからだ。けれども終わりが見えない。異形の気配は次から次へと暗闇の中から発現する。どれぐらい舞っているかわからない。足元には恐らく、異形の死体が積み重なっているだろう。奴らの血で打刀が滑り始める。死体が脛に引っかかる。全自動の妙技ではあるが、それにも矢張り限界がある。そして終に時が来た。多治比寅吉は一瞬の呼吸のズレを察した。しまった。


 目の端に大きく開いた異形の口が迫ってきた。身動ぎもせず狼狽えず、多治比寅吉はその異形を正面に見る。そう、教えられたからだ。


 ———死ぬ時は相手を見据えて黙して死ね。それが侍の死に様である。


 死期を悟った少年二人の耳に、聞き覚えのない何者かの靴音が飛び込んで来た。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る