Samara
第2話 Samara 1
ため息も絵になる少年の脳裏には、寮までの道筋が浮かんでいる。走れば10分、歩けば20分。男子寮までの道筋を強くなり始めた雨足の中、その足を抜いて駆け抜けるか。それとも遠くに見える雲の切れ間が運良く自分の前に来る、その可能性に賭けるか。そんな思案を憂いを帯びた目の奥でしていると途端に背後が騒がしくなった。靴箱から汚れた雪駄が引き抜かれて、石畳の上へ投げ捨てられる。靴箱前に置かれた簀を鳴らしながら雪駄を突っかけた少年が、大神恵一の隣を走り抜けようとして止まった。
「雨か」
そう呟いて大神恵一の隣に立った少年は短髪。併せの下にシャツを着込んだ書生姿である。背に負うた袋の中身は運動着だろう。彼らは面識がある。二人ともこの春から高等の総合学舎に入学した。修める学問は違うけれど同じ男子寮、部屋までも同室だ。
「
と大神恵一は彼の名前を読んだ。クルクルした犬の目を麗しい若君に向けて、多治比とよばれた少年が彼を見る。
「おお、大神、お前も雨宿り? 結構降ってんなぁ。俺さっきまで道場居たからよ、雨気づかなかったんだ。ずっと投げられててさぁ」
大和という国の教育システム、その最終段階に二人は居る。大和の少年少女は、家の都合に関わらず10歳で親元から引き離され5年間の共同生活を送る。勉学と共に職能訓練を行い、元服後、これは卒業も意味するが、即戦力として就職する。しかし、より高度で専門的な職業を望む者は、この高等学舎にて更に3年の勉学と職能訓練を義務付けられる。この国で花形である傭兵登録には必須の進路だ。
大神の隣に立つ少年、
「………お前、やっぱ火消しじゃなくて侍になれよ、向いてるよそっちの方が」
と雨を見ながら大神が聞いた。大神の意地悪な問いに多治比は口をへの字に結ぶ。少しばかりの沈黙の合間に言葉を探して彼に答えた。意固地な腹は隠す様努めながら。
「いや、やっぱ火消しだって。何処に配属されるかわかんねえけどどこの纏もクソカッケェだろ………。いやまあわかるよ?俺、宮大工の成績やべえけど、火消しには必須なんだもん………」
同室のよしみで彼の過去は聞いた。手違いだったか間違いだったか判明はしていないが、街の結界を抜けて転がり込んだヒザマという大妖が街一つを焼いた。
「つうかお前の親父だぞ、俺助けてくれたの」
今度は大神が黙る番だった。彼の父親はこの国の荒事屋、傭兵集団に従事している。回天という名の知られた傭兵集団、山野に跋扈する魑魅魍魎を調伏し、町村の鎮護守護を行い、災害、災難救助を主に行う自衛団である。昼も夜もなく、西に東に駆け回るから大神恵一にとって父の存在は曖昧だ。母親が死んだ際にも、父が母に対面したのは葬儀の一週間後。小さな骨壷になってしまった母の墓前で項垂れた父の、大きくしょぼくれた背中に泣きながら食ってかかったのももう8年前の話だ。
「お前こそ陰陽寮からの荒事コースじゃねえの。回天だって神職欲しいだろ。あそこパワー系だっていうし」
黙っていれば、と大神は隣でそう発言した多治比をその切長の目で睨みつける。一瞥の後視線を雨に戻し、吐きつけるように否定した。
「冗談じゃねえよ、あんな仕事やってられっか。お袋の葬式の喪主、8歳の俺がやったんだぞ。それに陰陽寮入るなら
神職。大和に於ける魔法職の最高峰が陰陽師である。その養成機関はたった一か所、京という街にしか存在しない。雨に吐き出すよう告げた大神の横顔を多治比はそっと盗み見る。神職習に行くという事は、江戸の総合学舎であるここを出て京に行く、という事。それを勧めておきながら、多治比は大神の答えに少し安心をした。出会ってまだ三ヶ月ほどだが嫌なぐらい馬が合う。意見が合わなくて対立をする事もままあるが、やっぱり離れてしまうのは少し寂しいのだ。
「でもお前、鵺打ちはやるだろ?そのついででも出来んじゃん」
照れ隠しに話題を変えた。大神は首を捻って唸っている。
「18から25までか?」
「あれ結構貰えるらしいよ。で、芦屋の巫女さん達と仲良くなって彼女ゲット」
「んな上手くいくわけねえだろ、倍率やべえんじゃなかったか」
「64人しか登録できねえしなあ。俺らの上の世代が登録多かったらワンチャンだよ」
「無理だって」
「いやマジで。確か村正主催だろ、あれ。あそこマジで福利厚生やべえし、怪我したら一括五千万貰えるぞ」
ウッと、大神恵一は喉を詰まらせた。五千万。デカい数字だ。それだけあればあのボンクラ親父の手など借りず、姉と二人で生活ができる。大神恵一が商人学舎に入学したのは8歳だ。母を亡くし姉以外の身寄りが無いから、特例として8歳からの入学が許可された。自分が曲がらずにここまで育ったのは、姉と商人学舎の教師達のお陰である、と大神恵一は考えている。
「まぁそれか、神居旅団で動画に出るか、だな。はい、どーもー!梵です!今日は魍魎討伐にやってきましった!」
突然始まった多治比渾身のモノマネに、気を抜かれた大神はンッは!と叫んで笑い始める。
「な?こないだの動画見たぁ?廃寺の魍魎退治。神職一人も居ねえのに、刀振り回してんのクッソウケるよな」
「あれ、死人出たんじゃなかったか?」
腹を震わせながら大神も話に乗る。
「ヨータだっけ。あれは死ぬわ、ここ!ここ!言いながら逃げねえもん。魍魎って実体化した後マジで暴れるんだな。勉強になった」
神妙な顔で腕を組み、そう呟いた多治比にまた大神は吹き出した。
「アレに出るぐらいなら俺、親父んとこいくわ。 キッチィだろ、それで死ぬの」
大神の返しに頬の裏を噛んだ多治比もまた上がる口角を堪えて返す。
「あの挨拶やって死ぬの末代までの恥だろ。末恥末恥」
拍子が合って目があった。直後喉まで競り上がっていた笑いが互いの口から爆発した。鬱陶しい雨音の中突如弾けた爽やかな笑いは、二人の暗い何かを昇華する健やかさに溢れている。少年二人の爽やかさに根負けしたのだろう、雨音が心なしか小さくなった。見上げれば雲の切れ間は確かに二人の頭上にある。どちらともなく、行くか、と言った。どちらともなく、応、と返した。足を踏み出した瞬間、大神恵一は何かの気配を感じて視線を左に移す。
大神恵一の視線上には、だだっ広い運動場と、その奥にある旧校舎が映っている。木造の旧校舎は二階建て、当時では珍しかった洋風を取り入れた文化住宅だ。名のある建築家の設計らしいが、お陰で取り壊しが不可能になった。大神や多治比が入学した時から既に立ち入り禁止の札が貼られている。貼られてはいるが破られている。何人かの、特に男子生徒の肝試し会場になっているからだ。水垢に汚れた校舎外観、二階の窓を大神の瞳は注視した。窓際に女生徒の影がある。あれは。
「………
それは大神恵一、彼の唯一認める肉親、大神美津姫の後ろ姿によく似ていた。高い位置で結われた髪、それが馬の尾の様に重く下に流れている。衣類は、総合学舎、商科の女生徒の制服。父と弟を支える割の良い仕事を求めて、二年早くこの高等学舎に入学している。薄い藤色の洋風制服だ。それが二階の窓に背を向けて立ち、中にいるであろう誰かと談笑をしている。藤色の小さな背中が内側から引かれた様に見えた。窓に映らなくなった美津姫の姿を探して、大神の背が少し伸びる。
既に雨の中に走り出していた多治比が、ついてこない大神を案じて振り返った。小雨に制服を濡らしながら旧校舎を眺める大神に習って彼も旧校舎を見た。しかし。
「大神ァ?どしたぁ?」
雨音がまた強くなった。
「…………いや、姉貴が旧校舎の中に居るんだが………」
は?と声を上げつつ、運動着の袋を頭に担いだ多治比が、再度旧校舎を見る。全ての窓を確認する。誰もいない。
「居ねえよ?」
言うが早いが、大神が雨の中を駆け出した。
「あいつ何やってんの、なんか人いたぞ」
そこにも、え、と返して、多治比も大神の後を追う。雨を切りながら大神は考える。男女別の総合学舎とは言え、いや男女別であるからか。欲を知り始めた少年達が、立ち入り禁止の校舎をそう言った目的で使う、それは寮の先輩達が話す猥談の端に聞いた覚えがあった。
笑うような雨をその麗しい顔面で受けながら、大神恵一は旧校舎に走る。それが彼女の望んだ事なら、望んだ人であるならば受け入れよう。だが、旧校舎に女生徒を連れ出して密会するような男がまともであるとは思えない。
旧校舎の玄関アプローチに飛び込んで、そのまま開きのドアノブを引っ掴んだ。抵抗なく開いたそこに暗い背中を滑り込ませる。扉が閉まる直前に大きな体を横滑りに滑り込ませた多治比は、目を白黒させながら大神の背中に文句を言った。
「いや、誰も居ねえって俺全部見たよ?!」
閉じた玄関扉がカチャリと嫌な音を立てたのだが、多治比の文句でそれは二人に聞こえなかった。大神は答えない。何故なら酷く、その木造校舎は静かだったからだ。人の気配のない木造校舎の中に雨音が響く。何処かに密やかな笑い声を潜ませて響く。その音は少年二人を包み込んで、段々と、段々と、大きく、強くなっていく。
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