goodbye ローズ・パーカー過去編
第30話 Good bye 1
養母の話だと、私は大きなトートの木の下で裸のまま泣いていたらしい。
臍の緒がまだついていたけれど羊水は既に乾き始めていて、小さな私は必死で生きようと鬱血した手と足を振り乱しながら泣いていた。真夏のエルムクリーグの森はその深さからひっそりと冷えて、真夜中には上着が必要な気温になる。暗い森に立ち込める雫が私の体温をどんどんと奪った。私がもう少し遅かったらあんたは死んでたね、養母のフェイナにそう吐き付けられるようになったのは五歳ぐらい。長く子供が出来なかったパーカー夫妻は、真夜中の森に突然響き渡った赤ん坊の声を奇跡だと思ったらしい。これは信心深く慎ましく暮らしている自分達への神からの贈り物だと。でも私が物心着く頃には既にビリーという男の子が生まれていたし、その下にはナンシーっていう赤ん坊もいた。私は神からの贈り物、奇跡の子供から一転、パーカー夫妻の子供の世話をし、仕事をこなす労働力の一人として数えられるようになった。
養母フェイナには私を嫌う理由がある。五歳になった私を見る養父レンウィックの目が意味を込めたものになり始めたからだ。養父レンウィックは何かと私を構った。寝る時は私を抱いて寝たし、養母フェイナの叱責から私を庇った。
ある夜の事だ。いつものように養父レンウィックは私を抱えてベッドに入り、私の手をとって股間に当てた。あの時の私はそれが何を意味するかわからなかったけれど、養父のギラついた目に不快感を覚えた私は彼の手を振り払ってベッドから出た。養父が行ったことをそのまま養母に話したら、そこから朝まで怒鳴り合いの喧嘩が始まった。そして次の日から私の寝床は馬屋になった。
養母フェイナの目が嫉妬に滲み始めたのもその頃からだ。
まるで贖罪のように養父は彼女を抱いたのだろう、そこから直ぐにビリーが生まれ、翌々年にはナンシーを妊娠した。夫の股間を触った汚らしい雌猫の私は、そこから奴隷の様な生活を強いられた。着るものは農作業用の泥だらけのスカート、洗えるのは週に一回だけ。シラミが髪の毛の中で跳ねて、馬屋の階下にいる馬たちの背中に落ちていく。夜も明けきらぬ早朝、馬屋の上階、藁のベッドの中で、牛と馬の小便の匂いで目を覚ます。灯りをつけて馬屋の清掃を行う。日が昇る頃にやっと冷えたスープが馬屋の前に置かれる。それから泉までの1時間の往復。馬たちに飼い葉を与えて、水を満たして、養父母の洗濯物をして、昼食を作る。ビリーを負いながら畑仕事をして、夕食を作る。自分の夕食は残り物だった。
かつては私を庇っていた養父レンウィックも私から目を逸らす様になった。一度だけ仲間と酒を飲んでいた養父レンウィックが私に吐きつけた事がある。
「この女は魔女だ。男に色目を使うことに関しちゃ一流だよ。育ちきったら絶対に売り飛ばしてやる」
育ての親の心無い言葉の数々にも私は傷つかなかったし泣かなかった。それも彼らの神経に触ったのだろう。だから物心ついた時にはそういった理由で厄介者になっていたし、自分が拾われた子だという事も聞かされて理解していた。養父母からもらったローズという名前。始まりこそそれは祝福された名前であったのだろうと思うけれど、私はやっぱり私生児だ。親のない子供、拾われ子、森の中に発生した表情の変わらない可愛くない女の子。だからいつしか養父母とその家族は私の事をこう呼ぶ様になった。ワイルドローズ。そして私はそれでいいと思っている。イバラの花は、誰彼構わず牙を向く。気まぐれに、傲慢に。だから今でも、この名前は自分に似合った名前だと思っている。
養父レンウィックの言っていた事は一部正確だったのだろう。
成長するにつれて、私の周りを男性、特に年上の男性が囲む様になった。10歳になった私と婚約したいと養父母に申し出た30代の男や、何かと私の後ろについてまわり、水桶やら重い飼い葉を取り上げようとした青年。彼らの目はあの夜の養父レンウィックと同じ色をしていた。上手く隠している様で隠しきれていないギラギラと光る虹色の性欲だ。私は不思議とそれを恐ろしいとは感じなかった。強引に手首を掴まれて引きずられそうになった時も、手首を払い腹と股間を蹴り上げて睨みつけた瞬間、奴らは憑き物が失せた様にその場に座り込んでしまう。
自分の倍はあるだろう男性というものに、当時10歳の自分が物怖じしなかったのは、体が大きかった所為もあると思う。同じ歳の頃の少女と比べて私の肉体は明らかに大人びていた。10歳で生理が始まって、11歳の頃には身長が150を超えていた。乳房も豊かに盛り上がり、体つきは村で見る娘たちと変わらなくなった。養母フェイナは私を商売女と罵って、酒場の親父に連絡をした。さっさとこの売女を引き取って欲しい。焦らなくてもさっさと出ていくわよ、と彼女を鼻で笑ったらフライパンでしこたま頭を殴られた、次の日だったと思う。
馬屋から広がる簡易な放牧地の柵は、曲がりくねって家までの通路になっている。泥の溜まったその道を身なりのいい男が歩いているのを見たのが多分昼過ぎだ。養母フェイナに殴られた頭には大きなたんこぶが出来ていて、額は切れて血が吹き出してた。治療は町医者の男が無料でやってくれた。おかげで私は数日後、60過ぎのそのジジイとランチを食べなきゃならなくなった。どうやって逃げようかと思案しながら、畑を耕している私の後ろを、チェスターコートをきっちりと着込んだその男は歩いていって、養父母の家のドアベルをノックした。迎えたのは養父レンウィック。
畑仕事をしながら私は聞き耳を立てた。手を止めたら怒鳴られるから手は止めない。だから聞き取りづらい。ただ、チェスターコートを着込んだその男は、ここいらじゃ聞きなれない美しいウルタニア語を話していた。なんとなくその発音やら話し方が、60過ぎの町医者を連想させて嫌になった。なんだか人を上から見下ろしている感じがする。丁寧に人を馬鹿にしていると私は思った。思ったから意識を土に集中させた。
「ローズ!」
養父レンウィックが私を呼んだ。返事はしない。だけど振り返る。泥のついた手で顎を拭った。養父レンウィックの前に立っている男は、栗色の巻毛を上品にまとめた男だった。歳の頃は22、から23だろう。若い紳士だ。着ている物は知識のない自分でも傍目から見てわかるレベルの高級品だった。グリーンの瞳を日に透かして、ステッキを携えた彼は口元に皮肉げな笑みをたたえている。顔の作りは、イケメンってよりはチャーミングな方。でもきっと街に出れば女の子達はこぞって彼の名前を聞きたがるだろう。
「話がある!こっちに来い!」
乱暴に私を呼びつけた養父レンウィックを睨みつけて、クワを畑の中に投げた。そしたら静かな静止の声があって、玄関の階段を降りる革靴の音が聞こえた。美しい茶色のチェスターコートが翻って、私のそばへ近づいてくる。私はその輝く靴を見てた。黒曜石みたいに光る革靴でこんな畑を歩けやしないと感じた。きっとコートの中のスーツだって汚れちゃうわ。
「君がローズ?」
優しい声が近くで聞こえた。畑の中には入らず、彼は柵の向こう側から私の名前を呼んだ。上から下までその男を見聞した。身長はきっと170後半だろう、ここからでも見上げるぐらいにはある。綺麗な靴から、上品な香りのするコート、きっちりと締まったグローブに握られた杖を辿って、顔を見る。そこでやっと返事をした。
「Ya」
そうしたらその黒いグローブがゆっくりと私に伸ばされた。口の端に皮肉な笑みをたたえた紳士は私に向かってこう言った。
「初めまして。僕はアレックス・フィッツ。君の人生を買い上げたい。一億ゴールドで」
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