第27話 Lullaby 5
状況整理と比較に、バロンは一週間を費やした。
物事を先ずは観察した。キッチンで食べる夕食はやはり泥の味がする。だが、アトリエでは覚えのある祖母の料理の味が蘇る。明らかな変化だ。キッチンとアトリエの凡ゆる場所を調べた。建材がそうさせているのか、地下という状況がそうさせているのか。だが建材は同じもので、別の地下室で食べたスコーンは砂の味がした。検証を進めるため、バロンは自室、庭、門の前、凡ゆるところで祖母のスコーンをひと齧りした。アトリエ以外は、味が変わってしまっている。特に門の前で、スコーンは毒物に近い味になった。舌は痛みを覚え、酸味と苦味が口の中を傷つけた。胃から迫り上がった胃液を、門の側で吐き出したら耳元で太く呻く様な男の声がする。『YOU』
だが、室内、更にアトリエの中でその声は一切聞こえなくなった。庭を通り抜け、門の前に立つと全身を凄まじい倦怠感と激痛が襲う。そして、見えない何かが凡ゆる方向から自分を呼んでいる事がわかる。恐怖に足がすくみ、立っていられなくなる。弟のウィリーがバロンの肩に手をかけた時が決め手だった。
「バロン兄さん、何やってんだよ」
弟ウィリーはそう発したつもりだったが、バロンにそれは聞こえなかったし見えなかった。目玉を繰り出された暗い穴から、腐った血液を流しながら絶叫するウィリーが、バロンに向かって叫んだのである。『
叫んで思わず弟を突き飛ばしたら、次の瞬間、母親譲りの整った顔と、白い肌、父親譲りのブラウンの髪が揺れて地面に転がった。
「何すんだよ!」
バロンはそこで思い立った。このままではいつか、自分は見知った人間を殺害してしまう可能性がある。
深夜のアトリエで祖父のロッキングチェアに揺られながら彼は考える。
このアトリエだけが自分の避難所、生きられる世界だ。一歩でも外に出ればあの悪辣な現象は自分を襲ってくる。つまり自分の健康でいられる世界はこの小さなアトリエだけだ。リベラフェデラーでの優雅な暮らしに戻ることは出来ない。腕で瞳を覆う。深く息を吐いて彼はまた考えた。
これは心因性の物か?バイロンの最期はショッキングな物だった。彼の死を、あの無惨な最期を受け入れられないでいるのだろうか。ならば、凡ゆる幻聴と幻覚は、時と場所を選ばず自分に襲いかかるはずだ。このアトリエ内であってもだ。そして夢。アトリエの中で眠る時、バロンは夢を見なかった。ゲストルームの自室の高級な寝具に包まれて寝るとやはりあの悪夢を見る。悪夢は何故か焦っていた。草原いっぱいに並んだ骨壷は既に蓋が開けられている。そして遠くでバイロンが彼を呼んでいる。ここだよ、バロン。
どう考えてもおかしいのだ。彼は心理学の専門家ではないが、この状況が心的外傷の典型症状でない事は容易にわかる。ではこの状況、この現象は、何かしらの外因によって引き起こされている。
腕を払って天井を見上げた。地下のアトリエは薄暗くけれども柔らかい灯りに包まれている。天井を覆うのは年季の入った木の板だ、そこに詰め込まれた砂と土が時折白い埃になって空中に舞っている。
ロッキングチェアから立ち上がり、バロンは再度アトリエ内部をじっくりと見聞してまわる。キッチンとの差異。庭との差異、門との差異。ここにしかない物を探してゆっくりと視線を部屋全体に這わす。その時、光が目に入って思わず顔を顰めた。目を開いて光源を確認すると、そこには採光窓の前に吊るされたドリームキャッチャーがゆっくりと回転をしている最中だった。
何の気なしに、バロンはそのドリームキャッチャーを眺める。麻紐で形作られた大きなドリームキャッチャーだ。円の下には鉱石の飾りと羽がぶら下がっている。白い埃を被っている様を見ると古い物だと思われた。眺めながらバロンはそれに違和感を感じる。普通ではない。これは、普通のドリームキャッチャーではない。そんな予感だ。直感とも言えるものがその時彼を支配した。これだ。
ドリームキャッチャーのそばに足を運んでそれをまじまじと観察した。メタトロンキューブを編み込んだそのドリームキャッチャーの網の目の間には、ガラスの様な透明な鉱石が嵌め込まれてあった。そこが虹色に輝いている。
背筋に電撃が走った様だった。
平らなガラスの中に何故、プリズムが発生している?思わず周囲に目を向けた。ドリームキャッチャーから反射した光はアトリエ全体に行き渡っていた。透明なガラスの様な鉱石が、何かしらの角度をつけて設置されている事がそこで分かった。光の照射先を目で追う。それは室内を見事に照らし出していた。それぞれが室内の照明の光を増幅し、回転するごとに色を変えていることも見てとれた。そして、飾り羽に括り付けられた鉱石、これもまた光を反射し、ドリームキャッチャーが回転するごとに音を発している。ちり、ちり、とした小さな音の奥に連続した高い周波数を表す一定した電子音。
これはなんだ。全身に鳥肌が立った。見たことのない技術だった。凡ゆる兵器に応用できる物理学が、ここに集約されている。興奮に息を潜めていると、背後に音が聞こえた。入室したのは、祖父エイモスだ。
「じいちゃん」
一も二もなく、バロンは祖父の腕を掴む。
「あれはなんだ。光の反射角度をあんな完璧に操れるなんてとんでもない技術だ、応用すればなんだって作れる!どうやってあれを」
バロンの様子に焦りもせず、祖父エイモスはキセルを吹かして、バロンの掌にその皺だらけの大きな手を添えた。取り乱すな、と言われている様でバロンの勢いも死んでしまう。祖父エイモスはやはり言葉を発さず、いつもの作業椅子の前に進む。バロンの長い足が一足で、祖父エイモスの正面、ロッキングチェアの前に進み立った。
「座れ」
と低い声で祖父エイモスは告げた。
キセルを手に取って、祖父エイモスはドリームキャッチャーを見上げる。作業台に手をついて、たったままバロンは祖父の言葉を待っている。
「あれは……、俺が作った物じゃない」
「じゃあ、誰が」
祖父の目が妙な郷愁を帯びた。祖父のリズムは独特だ、時間をかけてゆっくりと話すから、待つ方は実に焦らされる。
「俺は、五人兄弟だった」
機を外されてバロンは眉を顰める。聞きたいのはそこではなかった。この技術を持っている人間の話を聞きたかった。これは突破口だ。自分をこのアトリエから解放する魔法の鍵、そのパーツの一つなのだ。
「一番上はリズおばさんだ。次が俺。お前が知ってるのは、俺の下のロイおじさんと、一番下のメイおばさんまでだろう」
そこで祖父エイモスは言葉を切って、またドリームキャッチャーを見上げる。
「俺の下に、一人弟が居た。アランって名前のとんでもなく頭のいい子だった。そいつがこれを作った」
祖父の言葉は全てが過去形だった。だからバロンも、アランと呼ばれた少年の行く末を何処かで予感した。アッシュボーンは荒地から開拓された街だ。モンスターの被害も多かったろう。
「死んだのか?」
とバロンは静かな声で祖父に問うた。もし彼が死んでいるのだとするならば、技術の半分は失われたことになる。
いや、と祖父エイモスは断って、今度はバロンを見上げた。そして言った。
「俺が10歳、アランが8歳の時に、連れて行かれた。海の底に」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます