第26話 Lullaby 4

 耳の奥で何かが鳴っている。何かを削る音だ。心地よい。

 奥から手前へ、削(さ)、と。砂の上を流れる波の様な規則的な音。後に、刻(こく)々、と金属を叩く音。奥に聞こえるのは怒、怒、とモーターの回る音。白く濁る視界を攫うのはやはり採光窓から差し込む虹色の日光だ。朝の激しい光がそこから差し込んでいる。朝?

 毛布を跳ね除けて飛び起きた。同時に動かせなかったのであろう右肩が痛んだ。肩を押さえて呻きながら、音の方向を見た。

 真っ白い髪を後方に撫で付けて、滑した皮のエプロンをつけた男性が黙々と作業をしている。今は銃床にヤスリをかけている最中だった。紗、紗、と快い音が聞こえる。自分が目を覚ました事に構いもせず作業のみを続ける、彼こそがエイモス・クラウド。グレイフィアというマスケット銃の考案者であり、開発者、そして制作を行う、この世界では希少なガンスミスだ。

 そして彼はこういう男だった。自分の孫が健康に問題を抱えて療養に来たというのに、一言も添えず黙々と仕事のみをする。バロンの父であり、エイモスの長男であるヴィクターは彼をこう表現する。『YesとYeah以外の言葉を知らない』と。実際は辿々しくも朴訥に言葉を紡げる人間ではあるが、思慮が深い為に他者との会話に自分を挟まない。だから彼は会話に置いていかれる、置いていかれた結果、彼が発する言葉が、Yeah、もっと短いYa、になってしまう。父ヴィクターにしてみれば歯痒かっただろう、銃の作成は世界を変える技術だった。だがそれを喧伝する才能がエイモスにはなかったのだ。父ヴィクターの合理性はここから始まった物だと思われる。喋らない男を父に持ったが故、息子は喋らざる負えなくなった。

 けれど、バロン・クラウドにしてみれば、父ヴィクターの一種冷徹な合理性よりは祖父エイモスの、朴訥な正直さの方が好ましかった。父ヴィクターの優しさはいつも厳しさに裏打ちされていた。例を上げるなら、買い与えられた物。ヴィクターはバロンや次男のウィリーに送る祝いの品にすら何かの条件をつけた。無条件の贈り物などない、が彼の教育方針だ。贈られた物をどう使ったか、を父ヴィクターは見ていた。本は読む事が前提で、衣類は他者と自分の差異を鑑みる物だった。父ヴィクターにとって生活はビジネスだ。

 その一種窮屈な生活から解放してくれたのが、祖父エイモスの沈黙だった。彼は黙って銃床を作る。度の強いモノクルを片目に挟んで金属を削る。祖父エイモスの持つ静かで解放的なクリエイターの気質は、そばにいる人間にプレッシャーを与えない。野生動物がリラックスした時の様な、雄大な安心があった。居たければ彼の側に居てもいいのである。去りたければ去ればいい。だから、彼の側に居たくなる。

 そして今日も野生動物的な、祖父エイモスから滲み出る雰囲気は(その白髪から特にオオカミを彷彿とさせたが)ゆったりとリラックスして仕事を行うのである。きっと言葉もない。ただ言葉を発せば最小の語彙で返ってくる。この様に。


「今、何時だ?」


 バロンの声を聞いたのであろう祖父は、モノクルの奥の瞳を滑らせて右上を見た。壁掛け時計の方向だ。九時を少し過ぎている。祖父の家に到着したのが十六時前、脳が計算を始めて驚愕する。到着後直ぐにこのアトリエに降りて、祖父のロッキングチェアに横になったから、16時間近くバロンは寝ていた計算になる。そして気付く。夢を一切見ていない。

 形を整えた銃床に、エイモスは銃砲を合わせた。まるでそうあるのが当たり前であるかの様に二つのパーツは組み合わさった。前後左右からミリ単位の差異を探す。それが完全に一致しているのを確かめて、エイモスは再度パーツをバラした。次は装飾だ。祖父の作業は黙々と続く。何故かバロンも沈黙して祖父の作業を見守ってしまった。その静かな空間に似合わない音がした。胃を締め上げ知らせる腹の音。再びバロンは驚く。腹が、減っている。音を聞きつけたであろう祖父は、ふと作業の手を止めて左を見た。このアトリエを覆うカウンターの上に既に冷えてしまっている朝食が置かれていた。パンとマグカップ入りのスープ。祖母お手製のパンケーキは、バロンの好物だ。焼きたては香ばしく甘い。冷えても弾力が失われず柔らかい。


「食べてもいいのか?」


 バロンがそう祖父に問うとやっと、Ya、という彼の低い声が聞けた。おかしさを噛み殺しながら、バロンはロッキングチェアから腰を上げる。板間に足の底をつけた瞬間、鋭い痛みが全身に走ったけれどそれも一瞬だった。グッと体を伸ばして、カウンターに置かれているパンケーキとスープを手に取り、再度ロッキングチェアに腰を下ろす。そして恐る恐るパンケーキに齧り付いた。甘い。

 口の中で溶けていくパンケーキの甘味を呆然としながら彼は感じる。三ヶ月、全ての食物は砂の味で、飲み物は据えた泥の味がしていた。マグカップの中のスープを啜る。冷えてはいるが優しい味が口の中に広がる。物が食える。それも美味い。胃の奥に収まるパンケーキから何かしらの力が湧いてくる。それは全身に行き渡り感動になった。美味い。二口目は大きく齧り付いた。即座にスープを流し込む。美味い。喉の奥に消えていったそれらが感涙の涙に変わる。涙で喉が閉まったから、パンケーキを飲み込んだ後、大きく息を吐いた。美味い。

 祖父に隠しながら、バロンは口を噛み締めて泣いた。けれども祖父エイモスは職人的な優しさを持つ男であるから、それらを一切気に留めなかった。やはり彼は黙々と、トリガーの動きを調整し、留め金にクラウド家の家紋であるクラウド・クロスを掘り込んでいる。涙と共にパンケーキを飲み込みながら、バロンはまた静かに、祖父の所作を見守った。守られている安堵を噛み締めながら。


 日が高くなった。祖父はいつから作業を開始しているかわからなかったが、彼は自分のルーティンで生活をする男だ。太陽が彼の時間で、それを知らせるのは彼の肉体だった。席を立った彼はやはり孫のバロンに視線を寄せた。目で彼らは会話をする。だからバロンもロッキングチェアから立ち上がる。もう痛みもない。二人分の足音がゆっくりと階段を上がる。あがりきったらそこがキッチンだ。祖母が驚いた顔でこちらを見て言った。


「オゥ、マイ、ああ、バロン、貴方大丈夫なの?だめよ、あんな埃っぽいところに居たら病気なんて良くならない。気の病なんでしょ?ごらん、私が言った通りだわリベラフェデラーなんて行くもんじゃないの、あそこはね人の気っていう物を歪ませるのよ、タブロイドに書いてあったわ。ヴィクターにはあれだけ言ったのに聞かないんだから。でも大丈夫よ貴方はきっと強い子。クラウドの家の人間はとても強くて賢い人が多いのよ、見てなさい私の料理で貴方の病気なんてすっかり治してしまうから!そういえばフィービーは何処かしら、ヴィクターも賢い子だけど、ヴィクターが何より良かったのはフィービーと結婚した事だわ。あの子、ずっと農園に居るのよ。大地の力を取り入れてこそ……」


「ばあちゃん、ばあちゃん、腹が減ったよ。何か食べる物が欲しい」


 笑いを噛み殺しながらそう告げると、祖母グレースは一瞬その回り続ける口を止めた。が、発される言葉は更に回転数を増して祖父と孫に前に打ち出される。


「あらあらあら!ごめんなさい、いいわ、ちょうど今パンが焼きあがったのよ!貴方の健康を考えて全粒粉、それからチキンと豆のトマトスープもいい塩梅で仕上がってる。さあさあ召し上がれ!ねえ、エイモス貴方も少し声を掛けたらどうなの、私たちの大切な孫がこんなに痩せているのよ。貴方に何かやれることはないの?こういう時に男は駄目だわね、やれる事を提示できないんだから」


 まだまだ続く祖母の小言をものともせず、祖父は既にキッチンテーブルに腰掛け、若干小さくなりながら無言でスープを啜っている。この二人が一緒になったのは神の采配だ、とバロンは思う。祖母のグレースは人の三倍喋る。それをうるさく感じないのは彼女もまた野生動物の愛らしさを保っているからだとバロンは思っている。座って遠くを見るオオカミとひたすら駆け回り何かを食べ続けるうさぎが寄り添って暮らしている様なものだ。祖母のマシンガントークに口を挟める訳がないから、バロンもキッチンに腰掛けてスープを啜った。口の中に広がるのは泥の味。

 そんな訳がない、と彼は思う。そう、その時、彼は初めて世界を疑ったのだ。おかしいのは自分ではなくて世界かもしれない、と。祖母のスープを片手に、バロンは立ち上がり、アトリエへの階段を降りる。祖母が行儀が悪い、と叫びながらバロンの行動を心配そうに見守っている。アトリエの扉を開き、中に入り、スープを飲んだ。美味い。


 やっと彼は理解した。何かが空間を変えている。自分の認識を変える何かが自分を支配しようとしている。バイロンを支配した何かが、確かに同じ方法で自分を支配しようとしている。そしてそいつは、何かしらの理由でこのアトリエには入り込めていない。バロンの目は輝いた。それは獣の眼光だった。彼は今、自分を脅かす何かの尻尾を確かに掴んだのである。

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