第25話 Lullaby 3
アッシュボーンという田舎町の背後には霊峰グレイシャーと呼ばれる大きな峰がある。
グレイシャーから流れ出した雪解け水が、やがて地下に蓄えられて地表に噴き出す。アッシュボーンはその湧水に育てられた自然豊かな町だ。アズレファン湧水は、水質の良さから商品化もされている。汲めど尽きぬ雪解け水はやがて流れ出し川を作った。その川の周りに形作られた小さな町。クラウド家はこの町から始まった。
アッシュボーンの町の入り口には、幾何学模様を象ったモニュメントが置かれている。かつては濁った沼地が点在する湿地だったこの場所をたった一人の若者が開拓した。彼は先ず不思議な図形を掲げて、排水を行い、治水をした。様々な苦難に見舞われながらも、彼の努力は結実し、町を興せるほどに人口も増えた。彼の功績を讃えて、アッシュボーンの町の入り口には『クラウド・クロス』というメタトロンキューブが設置されている。彼こそが、クラウド家の始祖、ソラルド・クラウドである。
ゆっくりと進む馬車の中に安置されたバロンは、安定剤を噛み絞りながら痛みと恐怖と闘っている。リベラフェデラーの邸宅から馬車で三日。バロンの体調を鑑みたゆっくりした旅だ。旅の途中、幻覚と幻聴は頻度を上げて彼を襲った。恐怖に体を震わせながら、それでも彼が耐えたのは父のあの背中を思い出したからだ。何かを得ねばならなかった、何かを捨て去ったのだから。幻覚は悪辣さを増した。声には侮蔑が混じり始めた。しかし、クラウド・クロスを超えた直後から、幻覚と幻聴は霧散する様に彼の前から消え失せる。
聞こえない訳ではない。けれどもその頻度と強度が比較にならないほど弱まっている。なんだこれは。頭を上げて馬車の下げ込み窓から外を見ると、巨大なクラウド・クロスそれに反射した光が、窓を通して彼の体に浴びせられた。肉体から痛みが消えて、モヤのかかった意識が晴れてくる。体を起こして正面を見ると御者の足の間から、幼い頃両親に連れられてきたアッシュボーンのクラウド邸が近づいてきた。
小さな町を見下ろす小高い丘の上に建てられたクラウド邸への緩い坂道を登っていくと、シックな装飾の施された門が彼らを出迎える。そこから数百メートル、美しく刈り込まれた植木と生垣、季節の花々の咲き乱れる庭を通り、やっと玄関前のカバードポーチに辿り着く。コロニアル様式の二階建、白く塗られたラップサイティングで作られた完全なるシンメトリーも美しい古き良き時代の住宅だ。
玄関が近づくに連れ、馬車の中のバロンの肉体から痛みが消えていった。吐き気すら覚えていた胃の不快感が薄れ、小腹が空き始めた。馬車の振動を振り切る様に頭を振って体を起こした。力の抜けない右手に驚いていると、馬車がやっとその振動を止めた。御者が飛び降りてきて、コーチの扉を開ける。起き上がっていたバロンを見つけて、彼もまた驚いた。そして言った。
「お身体は大丈夫ですか」
奇跡の様な回復に戸惑いながら、バロンは自身の手を握り、開く。御者の手を借り自身の足でコーチから降りた。地面に足がついた瞬間に遠くから、クラウド邸を囲う門の向こうから微かな声がした。『you』肩を弾ませてそちらを見たが、もう声は聞こえない。だから息をついて、御者の肩に腕をかけた。踏み出した一歩は酷く重かった。
玄関からリビングへ続く通路に足を踏み入れる。天井が高くて開放感のある懐かしい家だ。幼い頃、父と母に連れられ避暑としてこの屋敷で過ごした思い出が蘇る。あの頃と何も変わっていない。まるで時間が止まっている様だった。
「お荷物の類は二階のゲストルームに搬入しております」
そちらまでお連れしましょうか、と御者が声を掛けたが、バロンの足は逆に向いた。リビングから少し進んだキッチンのそばにある階段。そこが気になってしかたなかった。幼い頃、この家で黙々と銃砲を削る祖父の姿を眺めていた事がある。地下には祖父のアトリエがあるはずだ。どうしてもそこに行きたかった。御者の腕を払って、壁伝いにキッチン側への階段へと足を運ぶ。数歩の歩みで息が上がる、それでもバロンの肉体が、そのアトリエを求めた。地下に続く階段へと足を下ろす。一歩、また一歩。暗く細い急な階段を慎重に降りる。自分の足にこんな力があったのか、と今更ながら考える。リベラフェデラーの自室で寝ている時は、起き上がることすらままならなかったのに。
真っ暗な階段の下で、記憶を頼りに壁を撫でた。スイッチを見つけて、指で弾いた。アトリエに続く木作りの扉の上で照明が瞬いて灯った。上階からは、御者の心配そうな声がする。
「バロン様、大丈夫ですか?お体に障りませんか?」
黒いコートを羽織った人の良さそうな御者が心配そうな面持ちで手を揉みながら階下の自分を見下ろしている。それを見上げて、久しぶりに微笑んだ。
「いいんだ。今は調子がいい。親父とお袋が帰ったら、アトリエに居ると言ってくれ」
◇◆◇
扉を開けると、木屑の香りが鼻腔をついた。
部屋の主である祖父、エイモス・クラウドは留守だった。テニスコート半面ほどの広さの室内は、地下に関わらず非常に明るかった。明かり取りのためのガラス戸が高い位置に設置されており、そこから上手く光の反射が行われて部屋中に自然光が行き渡る様になっている。差し込む自然光に反射した白い埃が空を舞ってはいるが、そこは非常に清浄で静かだった。懐かしい気配に絆されて、バロンはまた一歩、室内に足を踏み入れる。板間の木が軋む音がした。革靴の下で砂利が戯れる音がした。何もかもあの時のままだった。
自然光が照らすのは中央に設置された巨大な机。銃床を形作るための万力が設置されている。採光窓の下にはガスを利用した炉があって、そこで金属を溶かして精製する。トリガーの型や留金の型、金属を削るヤスリが壁中に立てかけられている。部屋をぐるりと囲むカウンターの上には絵の具やらオイルやらニス、刷毛や何に使うかわからない道具が散乱している。中央のテーブルを挟んで右側には火薬を入れた小さな箱が並んでいる。散弾の弾や、弾芯、ダムダム弾の弾などを管理している場所だ。その小箱とテーブルの合間が祖父の定位置だった。見れば今もそうなのだろう、潰れてしまった赤いチェックのクッションが主人を待ちながら静かに眠っている。そしてテーブルの左側。そこには一面に巨大な黒板が設置されていた。弾頭計算や、射出計算の為の計算式がそこに羅列される。黒板の下の溝には指を削りそうな短さのチョークが無数に投げ込まれていた。黒板消しは布が破れていて既に中のワタがはみ出している。黒板とテーブルの間の小さなスペースが祖父の寝床だ。軋むロッキングチェアは彼の自作だった。腰に負担がかからず楽な体勢で眠れるオーダーメイド。寝返りにも難なく対応できる広さがある。柔らかなクッションが積み上げられた祖父のロッキングチェア、その広いアーム部分に手を掛けた。幼い頃、祖父に抱かれてこの椅子で寝た。目が覚めたら側で祖父が金属の削り出しをやっていて、部屋の中には轟音が響いていた。耳をつんざく様なモーターを止めて、微笑んだ祖父は言った。よく寝てたな。
思えば、自分の全てはここから始まったのかもしれない、とバロンは思う。父にとって銃とは売り物に過ぎず、感傷を抱かせる物ではなかったのだろう。だが、幼いバロンにとって祖父の操る工具全てが魔法の杖の様に思えた。耳をつんざくモーター音も、沸き立つ炉の中の金属も、削った木にかけるニスの香りも、全てが好ましかった。幼い彼はこの部屋に入り浸り、やがて成長し兵器工学を学ぶに至った。
当然の様に、体は祖父のロッキングチェアに滑り込んだ。柔らかいクッションに体を沈め、目を閉じる。重い頭が誰かに支えられているような心地よさに包まれる。足を放すと空に浮いた様に体が揺れた。瞼に光がチラついた。きっと採光窓から漏れた光だろう。その思考を最後にバロンは眠った。実に三ヶ月ぶりの熟睡だった。
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