第4話 Samara 3
飛び込んだ旧校舎の玄関内部で雨を払いながら、多治比寅吉は文句を口の中で練っていた。
大声で大神恵一に呼びかけたのに、彼は答えすらしない。
彼の態度に釈然としないものを感じながらも、ひとまずここまで追いかけてきてしまったから、多治比も周囲をぐるりと見渡して、初めて入る旧校舎の内部を見聞した。玄関口の差した明かりに発光する白い埃の舞う様や、暗いばかりの天井。湿気た木の匂いとカビの香り、そして雨の音。口を開けながら辺りを見回している間に、大神恵一の姿は消えた。左側から足音が聞こえたから、視点を左に動かしてみる。壁がある。左をみる。教職員室、の札が見えた。
「大神ぁ?」
特に考えることもなく、多治比は教職員室の扉を開けた。施錠もされていないその扉は抵抗なく開いて、古ぼけた机の群れを彼の前に出現させる。主人のいない教職員机の上には綴込み表紙の板に圧縮された茶色い書類がまるで地層の様に積み上げられている。黒い表紙は反り上がって、その上にも白い埃が薄らと降りかかっていた。ぐるりと周りを見渡す。倉庫の要領で使われているのだろう、壊れた椅子や、体育祭時の旗や法被、行事ごとの飾り物などが乱雑に捨て置かれていた。その全てが、ままそこにあった様に鎮座しているから多治比は興味をなくして教職員室から廊下に出る。人がいるなら多少、物の動いた形跡があるはずだ。教職員室からひょっこり顔を出して廊下を見た。玄関はそこにあるし、廊下は相も変わらず真っ暗に真っ直ぐに続いている。天井からひっきりなしに響く雨の音が余計に静かで、不気味な暗さを連れてくるから、多治比はのんびりとした強がりの大声を上げながら大神を呼んだ。
「大神ぁ?聞こえてる?返事しろよ、なぁ」
彼が顔を覗かせたなら今度こそ、彼の腕を引っ張って旧校舎から出ようと考えた。武芸を叩き込まれてきた彼だから、彼は怖い物を知っている。それは人間の純粋な暴力であり、悪意である。魔物の在り方、造形やその暴力は恐ろしいけれども、対応の方法を知っていれば対処が出来る。処理にしか過ぎない、処理のみを行え、と多治比は武芸学舎の先輩達から教え込まれた。武とは究極の合理主義である。そしてその武芸の世界に身を置いていた彼だからこそ、この旧校舎の在り方が不快である。
仮に、と彼は考えた。
大神が見たものが真であるなら、悪漢は身を潜めるだろう。どうにかして思いを遂げようとするはずだ。しかし女性がこの様な場所での行為を了承するだろうか。ならばこの静けさはおかしいのだ。
仮に、と更に彼は考える。
人を誑かす魔物で一番に思いつくのが野狐であるが、野狐は必ず化ける前に狐火を出す。それが見受けられないなら、野狐ではない。では猿の類か。
多治比は鼻を啜った。香るのはカビと咽せる様な埃の匂い、蛇も狐も猿も鹿も、それが魔物として発生する前には独特の獣臭がする。それがない。
だとすると見間違いじゃねえのかな、と腹の底で唸る。同室でちょくちょく彼の癖を観察していたが、どうにも少しシスコンの気があると彼は思っていた。ベッドの下に隠している春本の類を彼から拝借した事もあったのだが、そこには清楚な年上の女性ばかりが揃っていて、辟易した事がある。
「なぁ、大神ぁ。見間違いだって、帰ろうぜ?今日神居旅団の更新日なんだよ」
教職員室から暗い廊下に出て、大神の名を呼びながら暗い廊下を歩いた。左右にある教室の奥からだけ、雨に紛れた灰色の陽光が差し込んでいる。その光も斜めになってきた。
日が落ち切るまでそう時間はないな、と多治比は頭のすみで考える。雨も降っているから夜になるのは早いだろう。ならいっそ、教室の端にでも陣取って一泊してみるのも悪くはない。彼がこんなに冷静なのも、通っていた武者学舎の教育の賜物だ、
そうと決まれば、と教室の中を覗きながら寝る場所を見聞した。この先にきっと二階へ続く階段があるだろうから、それを目指してのんびりと歩く。右の曇ったガラスを覗いて、次に左に目を向けたその時だった。
「あっ!…………がぁあ!」
上階から聞こえた声は確かに大神恵一のもの。何かが倒れる音が聞こえて、もみ争う人の足音、体の音。それから走る音と、恐らくは階段を駆け降りる音。その音を追って、多治比もまた廊下を駆けた。少し走ると廊下の奥の暗闇から、背後を見ながら走ってくる人の姿が浮かんでくる。叫んだ。
「大神ッ!」
肩を震わせた大神恵一が、見開いた目をこちらに向けた。見知った顔を見つけた安堵が彼の表情に現れる。が、即座に大神恵一の腕が多治比の襟に伸びた。襟首を引っ捕まえられ、引っ張られるまま多治比の体が右隣にあった教室の引き戸に叩きつけられた。何すんだよ、をいう暇もない。大神恵一は焦った様子で引き戸の手かけに震える指をかけ、戸を開け放った。雪崩れ込む様に二人の体は白く汚れた教室の床に倒れ込む。いってぇ、と多治比が呻く合間に、大神は立ち上がって引き戸を閉めた。それから教室の中に残っていた学生机を引っ張り、積み上げ、バリケードを築こうとしている。
「お前、なに…………」
何やってんだ、なのか、なんなの?なのか良くわからないまま、必死の形相でバリケードを築く大神恵一の姿を多治比は呆然と眺めている。そのうち、荒い息を弾ませながらそれでも白いままの彼の頬に違和感を持った。その原因を探る。彼の黒い学生服が肩口からべっとりと黒く濡れている。あれは。
「怪我してんな?お前」
責めるように言った。作業をやめた大神が、喘ぐような呼吸の隙間にやっと苦痛の表情を見せた。抜けていた腰が一気に伸びたので、立ち上がって彼に近づいた。途端に大神の足の力が抜けて倒れ込みかける。それを受け止め始めて彼の状況を把握した。息が荒くて細い。出血も酷い。良い状態ではない。彼の脱力した体を抱えながら慎重に運んだ。窓から差し込む微かな光を頼る為、窓際の壁に背をつけて座らせた。投げ出された長い足にもう力はない。大神の肉体を観察しながら、運動着を入れた袋を引っ掴んで開いた。武に生きる者の嗜みだ、壊すからには治す方法も一定知っていなければならぬ。袋の中には無菌の当て布と包帯、武道着と打刀が入れてある。万が一を考えて帯刀した。
「脱がすぞ」
大神の濡れた学生服のボタンを外し、創部であろう右の首元を見る。鎖骨から首元にかけて、四つの咬傷、傷は深い。一部動脈に達している。証拠に拍動に連動する様、傷口から血液が吹き出している。咬傷には細菌が付き物だ。多治比は、少し痛いから我慢しろ、と彼に告げて真っ赤に流れる大神恵一の咬傷の一部に口をつけた。
血を吸う。口の中に血の味が広がる。それを汚れた床に吐き捨てる。大神恵一の艶かしい汗ばんだ肉体が、その度に苦痛に震える。二度目。痛みを堪える為、大神恵一の指が多治比の肩に食い込んだ。また血を吐き捨てる。
「うっ…………は…………ぁ…………」
水がないから兎に角早急の受診が必要だ。癒しの術は自分よりも大神の方が専門だろうから、一定の処置の後、当て布を当てて包帯を傷口に巻く。白い大神の首筋が更に生白く光っていて、多治比も妙な気分になる。
「とりあえず早くここを出るぞ。お前術は使えるな?傷口に術かけとけ。歩けなかったら俺が負う」
立ち上がり周囲を警戒しながら、多治比は足を伸ばしたまま教室の壁に背をつけた大神へそう呼びかけた。疑問はある。大神を襲った何かの正体、その危険性、だが今はそれどころではない。重要なのは大神の生命だ、危ないところまできている、と多治比は考えている。
「無理か」
決断は早い方がいい。立てないのなら負うのは当然だ。そこに患者の意思など必要ない。死なせてくれなどは飯が食える様になってから言うものだ。大神の状態を見るに、搬送中に意識を失う可能性も考えられる。
「一度横になれ。背負って運ぶ」
大神の前に立ってそう告げた多治比に、座ったままの大神恵一が震える手を伸ばした。細い喉を動かして何事かを伝えようとしている。咄嗟に彼の前に片膝をついて、その口に耳を近づけた。大神の汗ばんだ手のひらが、ゆっくりと多治比の首に回された。
大神恵一は細い声で告げた。
「…………たじひ…………すまん…………」
「気にすんな。てか早く治療受けねえと死ぬぞお前」
「たじひ………。きて………」
きて?良く意味はわからなかったが、体を寄せて彼の抱擁を受け入れた。
「さわ、………て。腰、痛い…………」
腰?外傷を見落としたか、と多治比の手のひらが、大神の細い腰に回される。腰部を手のひらで弄る。外傷の気配は見られない。その間に、大神の腕がしっかりと自分の背に回された。まるで女の様に、焦がれた女の腕の様に、大神の腕が多治比の背中を這い回る。白く汗ばんだ腹に目をやった。それから大神の顔に目を向けた。仄かに色づいた大神の整った顔が、女の様に淫美に揺れて笑っている。下肢の奥が熱くなった。
雨音が多治比の耳に届く。大神は痛みからか、それとも別の意味を伴ってか、彼の前に肉体を晒す様腹を伸ばした。薄らと色づく肋骨の線、汗ばんで肉のない腹部に汗が伝う。その汗がへその穴に入り込んでいく。二人は恐らくは同じ空気を吸って沈黙した。数秒の沈黙の後、多治比が絞り出すように笑いを含めて吐き出した。
「とりあえず生きて帰るぞ。お前の好きな豊姫の春本、奢ってやるからよ」
顔を逸らして笑った瞬間、多治比の鼻を匂いがついた。かつて嗅いだことのない刺激臭だ。肉の腐ったような、卵を炒って腐らせたような独特の刺激臭。獣の生臭さとはまた違う、この匂いは。
硫黄?
思い立って正面を向いた。先程まで艶かしく輝いていた大神の顔の中心が割れ、肉の花の様にうねっている。花弁の内側には鋭い歯が並んでいた。ああ、大神はこれに食われたのだな、思った瞬間、肩口に鋭い痛みが走る。自分の肩にべったりと張り付いた肉の花弁の隙間から、大神の姿をした化け物が嬉しそうに美味しそうに、多治比寅吉の肉と命を啜り始めた。
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