第3話 Samara 2

 大神恵一は強くなる雨足の中慎重に気配を探る。


 多治比の大声の所為だ、と彼は考えた。当然だ。これから事を行おうとするに邪魔が入ったに等しい。次取る行動で考えられるのが息を潜んでやり過ごす事。次は姿を表しての言い訳だ。言い訳などさせるものか、と大神恵一は暗闇を睨む。左右の靴箱はまだ玄関扉からの灯りで照らされてはいるが、彼の眼前に伸びる長い板間の廊下、それは果てもなく真っ暗に真っ直ぐに伸びていた。小さな二段の階段を靴のまま上がる。背にある玄関の淡い光でも見えた。板間の廊下には真っ白な埃がべっとりと降り積もっている。左右を見た。暗闇に慣れた目が、右に職員室の文字を見つけた。左は。


 階段だった。踊り場があり、その踊り場の上に採光窓が開けられている。階段を踏み外さない様に慎重に足を進める。足を進めるごと、古い木がぎし、と音を立てる。その度に白い埃が、大神の足元に翻る。採光窓を背にして、踊り場を渡る。なんだか体が揺れる感覚がして、思わず手すりを握ってしまった。手すりの上の埃の層が彼の濡れた手のひらにくっついて砂利の触覚を伝えてくる。舌打ちとともに手を広げて見たら、指紋を避けて手の中は真っ黒になってしまっていた。汚れて仕舞えば後はなすがままだ、そのまま手すりを掴んで階段を登る。タガの一つが外れたので、靴音を隠すことももうやめた。ぎしぎし、と靴音を鳴らしながら階段を上りきる。また正面には薄暗い直線の廊下。左上には二年教室の札、右は三年の札だ。窓が教室の奥にしかないから、廊下まで外の明かりが届かない。けれども差し込む微かな外光を頼りに、大神恵一は足を踏み出す。


 みし、と古い木を軋ませながら三年の札の下を通り過ぎる。廊下側に並んでいる木枠のガラス窓も、白く汚れた鏡面に大神の影を写しながら微かに揺れて音を立てた。屋根を叩く雨音がふいに激しくなったので一度足を止めて天井を見た。真っ暗だ。

 嫌な予感が膨れ上がる。暗闇が緊張と恐怖とを連れてくる。だからなのか、姉の名を呼ぶことはしなかった。姉の名を呼んだ瞬間、自分が一番見たくない何かが現れる様なそんな気がしていたから。雨音に隠れて姉を探し、恐らくは廊下の中央、10ある教室の半分ほどまで歩いた時だ。辺りはもう真っ暗で、一寸先すらよく見えやしない。その暗闇の奥から誰かの息遣いが聞こえた。5つめの教室の奥だ。足を止めた大神の耳に聞きたくなかった声が飛び込んできた。


「あっ」


 吸った息がそのまま下っ腹に落ちて石になったようだ。息をするのも憚られた。そして固まった肉体の奥の方で心臓だけが痛みすら伴った速度で早鐘を打つ。


 女の声。あの、女の声だ。何度もその予想を消したが、大神恵一の脳にはそれが想起させられる。多治比の自慰行為の為に使われる女達の声だ。自分の自慰行為の際も聞いてきた女の声だ。吐息とため息、濡れそぼる内臓を開いた女の刹那げなあの声。指の先が冷たくなって、足が震え出した。


 このまま逃げようか、と思った。逃げて知らぬ振りで通せるだろうか。姉は了承済みかも知れぬ、何かしらの背景があって已む無く思う人と結ばれているのではないか。


 いや違う、とも考えた。こんな薄寂れた暗く汚らしい場所で処女を散らされる姉を思うとそれは不憫で堪らない。せめて飛び込んで上にいるだろう男を殴りつけ、場所を選べと激高するのは弟として当然の行動だ。


 震える足を前に出した。砂利が擦れて嫌な音を立てた。女の声は断片的に暗い教室の奥から聞こえてくる。あっ、あぁ、んぅっ!あん!


 扉の前に佇んで、大神恵一は引き戸の手かけに指をかけている。そのかけている手は傍目にもわかるほど無様に震えていた。見たくはない、という強烈な忌避感の奥にそれを嘲笑う茹だった性欲が自分の下半身から匂ってくる。姉の裸体、姉の肌、姉の可憐な姿から目を逸らす様になったのはいつからだったろう?


 雨音に隠れて引き戸を数センチ開けた。篭っていた匂いが大神恵一の鼻をついた。それは汗と精液、そして爽やかな花の香り。数センチの隙間から教室の中を覗き見る。藤色の女子制服、そのスカートの端が乱れて床に流れていた。藤色の制服を着た女生徒は明らかに足を開き、自身の股の間に誰かを受け入れている。衣擦れの音がする。生白い足が快楽を求めて蠢き、爪先が前後する。


「ああっ!」


 声に合わせて大神恵一の肩がびくりと跳ね上がる。なんて浅ましいいやらしい声だ、それを姉があげている。喉の奥から酸いものが上がってくる。堪えると涙が滲んでくる。やめろ、頼むやめてくれ、懇願する内心で焼ける様な激情が渦巻く、もっと見たい、もっと、姉貴の顔、姉貴の尻を、姉貴の全てを!


 呼応した様に女生徒の嬌声は大きくなった。女の股の間の人物は逆光に暗く染められ詳細がわからない。ただ動いているのはわかる。前後に律動している。前後に律動しながら女生徒の肉体に覆い被さっている。大神恵一はそれを更に良く見ようとまた数センチ引き戸を引いた。下肢の焼ける様な熱に浮かされての行動だった。だが同時に、女生徒の様子がおかしくなった。


「あっ!がっ………!ああっ………!グッ…………!」


 前後に伸びていた足はバタつき始め、細い腕が黒い男を押し除けようと暴れ始める。同時に何かを押しつぶす様な嫌な破裂音が聞こえ始めた。先程まで大神恵一の腹を痛めていた欲情は一気に霧散し、燃える様な義憤に変わる。咄嗟に引き戸を押し除けて、黒い男の肩を掴み女生徒から引き剥がした。


 床に転がる黒い男の前に仁王だって叫んだ。


「っにやってんだてめえ!」


 息をついて男を観察する。引き離された男は床に蹲り、後にゆっくりとその面を正面に向けた。荒い息を吐きながら、大神恵一は見たものの情報を整理する。こいつはなんだ?そいつには皮膚がなかった。こいつはなんだ?骨に張り付くいているのは干からびた茶色い肉の塊だ。筋張って角ばって唇も鼻もない。目だけが爛爛と青白い光に輝いていて、それも何かを恨む様に釣り上がっている。シシシシシ………、と蛇の鳴き声を裂けた口元から発しながら、長い舌をそいつは出し入れした。涎が木の床に染み込んで煙を上げた。


 やばい。大和、傭兵隊の最終教育機関に在籍する彼はその本能で状況を理解した。これはやばい。なんだかよくわからんが、魍魎どころではない怪異がこの総合学舎に入り込んでいる。


「逃げるぞ、美津姫!」


 姉の手を取って、その場を逃げ出した。背中から姉の、「恵ちゃん、待って!」という声も聞こえた。元来た道を走って逃げる。5つの教室を走り抜け、階段を降りようとした彼の前に、真っ暗な廊下が続いている。やばい。知識が自分の置かれている危機的状況を教えてくれる。魍魎の類ではない、もっと狡猾で悪質な魔物だ。空間の変異を行える妖怪など聞いたことがない。海外の魔物でそう言った類の何かがある、という話は本で呼んだ。だが、海外の話。殆どのモンスター、怪異に至るまで基本的に彼らは海を渡らない。つまりこれは外来種、すぐさま国に報告しなければならない類の怪異である。


 生き延びられれば。最悪の想定が頭に浮かんだ。同時にこの旧校舎に入り込んだ友人、多治比の行方も心配になった。


「美津姫、俺から離れんなよ」


 姉の手を強く握った。が、何かが違う。姉の、うん、と呟く声が聞こえた。背中で姉の声を聞いてもう一度、大神恵一は己に問うた。


 振り返る直前に首元に痛みが走った。痛みの先には確かに姉の横顔があった。姉の柔らかな髪の感触が頬に触れる。姉の歯が強く硬い制服の生地を食い破り、大神恵一の肉にその犬歯を差し込んでいる。体を捻って女の体を押し除けた。女は藤色の制服、そのスカートを翻して横座りによろけて尻餅をついた。距離をとった大神の肩から熱い液体が溢れ始めている。手をついて女は立った。顔の造形も背格好、髪の形まで大神美津姫、彼の姉の姿だ。けれどもその美しい、整った顔の正中が真っ直ぐに割れて、左右に展開した。真っ赤な肉の間には何重にも並べられた鋭い歯が並んでいる。左右の肉の切れ端に姉の目を模した怪物が、花の様に開いた肉の中央から震えた声を出した。


「ッk、kいちゃぁん?はなr、離れnいでNぇえe?」

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