第20話

アオは、伴雷へ返す傘を一度開いて状態を確認する。綺麗にしてくれている。元の通りに留めて、路地を覗く。丁度、会社員らしい男の人が出てきたところだった。入れ替わりで入って行くと、伴雷はぱっと顔を輝かせる。さっきまでのらりくらりとした薄い笑顔であったのに。慌てて立ち上がり、こちらへ歩いてくる。


「えっ、あれっ、珍しいね」


 アオは伴雷が座っていた場所を見る。赤いシートの上に、座布団とちゃぶ台。簡易的な電源にはノートパソコンとポッドが繋がっている。彼は大抵この場所にいて、やってくる人の話を聞いたり、情報を売ったり買ったりして生活している。もっといろいろやっていることはあるのかもしれないが、詳しく聞いたことはない。


「なんかほしいもんあるとか? 飴いる?」

「ううん、いらない」


 借りていた傘を差し出しながら言う。


「傘、返しに来ただけ」

「ああ、そっか、傘ね。ありがと」


 用事はそれだけだし、今は仕事中のようだ。伴雷はアオから傘を受け取るとちらりとアオを見る。目が合うとぴくりと肩を震わせて目を逸らす。


「じゃあ」


 目が逸らされている間なら、いくらか自分は、自分の思う通りに動くことができる。踵を返すと、後ろから寂し気な声がかかる。


「あ、もう行っちゃう?」


 振り返ろう、と思うより前に振り返っている。引き留めて貰えてうれしい、と思っていることがバレているだろうか。アオは恐る恐る伴雷を見上げる。じっと見上げていると、伴雷はしゃがんで顔の位置を下げる。伴雷がアオを見上げるような格好になる。


「邪魔じゃない?」

「邪魔じゃない邪魔じゃない。隣のファミレスでパフェ食べよ。あ、それとも適当に歩く?」


 それだと、一緒に居たいと言っているみたいだ。アオは慌てて首を振る。今日はバイトが休みのせいで、立ち去る理由を探すのに苦労する。


「――ううん」

「そっか。それなら送って行こうか」


 大丈夫、とは言えなかった。

 小学生の時は無視できていた。中学の時も真っすぐ帰ることができていた。いつだか聞いた、母の声が聞こえる。


「幸せね」


 一緒にいるだけでいい。ただそれだけで世界で一番幸せだ。それを体現してみせた両親。アオが恐ろしいと思うのは、二人ともが合意の上で実行したということだ。一人では成立しなかった。体から魂が抜けるその瞬間まで、二人は二人だけの世界の中にいた。


「アオさん」


 伴雷の声がしてハッとする。彼は自分がさっきまで座っていた場所を指差して言う。


「そこで俺とお喋りしようか」


 立ち上がって手を差し出す。「あの男だけはやめとけ」善助は言った。「口をきくなと言ったでしょう」さくらも言った。アオはゆっくりと手を持ち上げる。少し、話をするだけだ。傘を借りたからそのお礼に。お礼に? 視界がぼやけて、何度か瞬きをする。お礼になると思っているのか。それを、伴雷が喜ぶと思っている? 実際喜んでくれるけれど、いつまでそうして、伴雷に与えられるだけの関係を続ける気なのか? 自分からは何も言わないで、ただ接点を持ち続けてくれることを良しとする。そんなのはずるいし、やっていることと言っていることがちぐはぐだ。

 あの二人のようにならない為には、徹底的に好きなものから距離を置く必要がある。


「あ」


 伸ばした手を、迎え入れるようにして伴雷が掴んだ。

 父と母に会いに行ったあの日、伴雷がアオを止めようとした時。構えた手に触れたのと同じように、優しく、丁寧に。父が母にするように、あるいは、母が父にするように。――自分には与えられなかったものが、今、与えられている。


「……アオさん? やっぱちょっと疲れてる?」


 伴雷がアオを覗き込む、気づかわし気な視線は、自分がどれだけ望んでも与えられなかったものだ。気を引こうとしたこともあったが、何の効果もなかった。母は、あるいは父は言った。「運命だ」とお互いのことを指して言った。であれば、とアオは思う。自分にも運命の相手がいれば、ああして愛し合うことができるのかもしれない。

 いつだって楽しそうに幸せそうに、二人でいればなんだって平気なんだという顔をして。そういう相手が、この世界のどこかにいるのかもしれない。父も母も、必死に探したに違いない。自分にとっての唯一の運命を。

 体が熱い。

 心臓がばくばくうるさくて、何を考えているのかわからなくなってきた。

 ――私は今どこにいるのだろう。

 体と心が、それぞれ別の方向に引っ張り合う。引き裂かれそうな痛みを感じながら言った。


「やめて、ほしい」


 言いながら、自分から手を離すことはできない。


「お願い」


 ついに顔が見られなくなって俯く。何を頼み込んでいるのかわからない。なんでこんなことになったのか、わからない。


「ごめんなさい」


 伴雷はどんな顔をしているだろうか。呆れているだろうか。それとも、怒っているだろうか。


「ごめん」


 繋がっている手を意識すると、涙が、とめどなく溢れて来る。どうして自分だったのだろう。自分でなければ、彼や、周りの人達を煩わせることはなかった。


「それは、だめ」


 とっくに、時々会いに来て貰える程度では足らなくて、本当は、もっと、一緒にいたい。


「そんなことされたら、私は」


 小さな、古いアパートで二人。父と母の姿に、自分と伴雷を重ねてみる。最初は普通かもしれない。でも徐々になにも見えなくなって、他のことなんてどうでもよくなって、ただ、二人でいることだけに価値を見出すようになる。


「私は、耐えられなくなってしまう、から」


 今生の別れを告げるようにどうにか笑って、最後の力を振り絞って手を離すと、頭が余計なことを考え出さない内に走り出した。

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