第32話

伴雷は窓の外を見ているアオに飲み物を持って行った。料理は難しいが、お茶くらいなら問題なく淹れられる。アオがなんの疑いもなくコップを受け取る姿を見るのが好きだ。今日も、アオは伴雷から緑茶の入ったコップを受け取り「ありがとう」と言った。


「伴雷くん」


 お茶を一口飲んだ後に、伴雷を見た。


「私は、いつまでここにいていいの?」

「それはもちろん、アオさんが望むだけ」


 それを叶えることが自分にはできる。寿命を迎えるまで二人で居続けることも、できる。それだけの財産はあるつもりだ。あとは、そうしようという意思が二つ揃えばいい。アオの父と母のようにただ死んで行くということはないだろう。二人で寿命を食いつぶした後死んで行く。いくらか立派だと、伴雷は思う。アオは、どう思っているかわからないが。

 アオはじっと伴雷を見上げている。こうして見上げられているのも好きだ。


「なに?」

「ううん」


 もう一度窓から外を見る。町を見下ろして、自分の状況を冷静に呟く。


「唯一の家族に何の連絡もしてないし、バイトも無断欠勤してるし、学校も行ってない。歳は十五」


 外にも出ないせいで、季節感すら失いそうだと、アオは時々窓を開けて「あつい」とただ汗をかくだけの時間というのを作っている。伴雷はそれに付き合うのだが、生きているという感じがしてそれもまた好きだ。アオは首を傾げて問う。


「最悪じゃない?」

「俺にとっては最高かなあ」

「最も良い状態?」

「アオさんがいるしね」

「いるだけだよ」

「そうかな。生き続けるのって結構大変でしょ」

「それは、そうだね」

「俺はあんま大変だと思ったことないけど!」


 これは本当だ。皆が大変だと言うから、大変なんだろうとは思っているが、実際感じたことはない。今となっては、不足はなにもないように思う。海原アオに出会えて、命を張っても惜しくないような大切なものまで見つけてしまった。


「ま、俺のことはいいからさ。好きなだけ考えてみたらいいじゃん」


 誰かの悩みや苦しみを聞く時と同じようにへらりと笑って見せる。アオはふと手を持ち上げて伴雷の頬を抓った。


「痛い痛い」

「ごめん、あんまりにも悩みがなさそうだったから」

「俺は悩むの苦手ってのもあるけど、今はこんなに近くにアオさんがいるから」


 普段であれば聞くだけだ。求められれば助言もするが、やはり、アオの前だとそこまで格好をつけることができない。つままれている手を掴んで引っ張り寄せてみた。拒否されなければ抱きしめようと思ったのだが、アオはビックリして後退している。窓をあけていたわけでもないのに汗をかいて、目を見開いていた。怖がっている。


「ご、めん」

「んーん。いいよ」


 アオはゆっくり元の位置に戻って来た。呼吸を整えているのをじっと見下ろす。そう、アオはこれ以上先に進むのは怖いのだ。ただ一緒にいるのはいいが、その先は怖がっている。しかし、惜しいことをしたかもしれない、という顔もする。「ふふ」伴雷が笑うと、アオは拗ねたような、不満そうな顔で言う。


「ずっと思ってたんだけど、伴雷くんのそれは、どういう感情なの?」

「ええ?」


 どういう感情か。

 思い当たることはある。思い当たるというか、そうであればいい、という感情だ。


「んー、上手いこと言葉にできねーからなあ」


 例えばそう『愛』というものがある。

 『愛』という字は古い字形では、『旡』と『心』、『夊』からできていたそうだ。『旡』は人が後ろを振り返っているさまをかたどった字とされていて、『心』は心臓の形をかたどった象形文字。こころを意味している。『夊』は人の足跡をかたどったもので歩くことを意味している。

 アオの少し前を歩いて、振り向きながらアオのことを見ていたい。それが、伴雷の考える理想の形ではあるのだけれど。


「アオさんが好きなように解釈してくれたら嬉しい」


 振り返ってくれているのはアオの方かも知れない、と思うと自信満々にこれは『愛』とも言いにくい。アオは釈然としない顔である。


「……考えなきゃいけないことを増やさないで欲しい」

「ははは」


 笑うと、アオに再び頬をつままれた。


「痛い痛い」


 幸せだ。心の底からそう思った。

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