第31話

芥善助は一人で喫茶店の閉店作業をしながら舌打ちをする。二十一時時点で客がいなかったので早々に閉店した。湿気がひどく、ただでさえ陰鬱な気分がさらに沈む。

 いいや、と考え直す。自分のことはいい。それよりも、さくらの調子が悪そうだった。孫が行方不明になって二週間だ。調子がいいはずもないが、食事もろくに喉を通らないようで、暇さえあれば外を出歩いている。アオの情報も、伴雷の情報も入って来ない。やれることはやっているつもりだ。


「あの馬鹿共、一体どこにいやがんだ」


 どこかに旅に出ている、というのも考えらえたし、この町にいてどこかの部屋で二人だけでいるような気もした。その場合。アオが望めば伴雷はどんなことでも許すだろう。言って欲しいことを言うのだろうし、抱いて欲しいと言われればその通りにするだろうし、一緒に死んでくれと言われたとしても、喜んで一緒に死ぬだろう。元々、自分の人生に何の興味もなさそうな奴だ。

 それは、あいつらにとっては幸せなことなのかもしれないが、間違いであると善助は思う。間違いだ。そんな風にして死ぬべきではない。正直なところ理屈ではない。そんな風に死んでくれるな、と強く感じる。「どうして欲しいの」とアオは言った。どういう生き方なら満足なのか。結局、自分のように道を外れてほしくなくて必死になっていた。


「そっちは普通の大人のつもりか元ヤクザ」


 アオは言った。傷付いたわけではない。実際アオは、十五の時の自分よりもずっと優秀で、できることも多い。出会ったばかりのアオは、自分の感情に真っ直ぐだった。それはつまり、さくらがそういうアオを良しとしたからだと善助は思っている。そして、さくらの周りの大人も、アオが子供らしく感情的であることを良しとしたのだろう。だからこそ、アオはあの日、感情のままに善助を助けたのだ。

 そして、伴雷が現れた後のアオには、その性質に慎重さが足されたように思う。アオは最初から伴雷を好ましく思っていたはずだ。心のままに動いていれば、アオはもっと伴雷と関わり合っていただろう。そうならなかったのは、さくらがアオの感情の先に居たからに他ならない。さくらを見て、アオは考えたことだろう。

 もしかしたら、この感情は持っていてはいけないのかもしれない。

 ――大人は、勝手だよな。

 感情を出してくれることを嬉しいと思った矢先に、それだけはだめだと制止する。さくらは間違っているわけではない、と善助は考える。七歳の子供に近寄って行く二十二歳は不審者だし、信頼できる男かと言われればよくわからない。当時さくらに聞かれたことがある。合田伴雷はどういう男か、と。「よくわからねー男ですよ」実家は金持ちで、家の中でトラブルがあるという話も聞かない。アオとは正反対で、なにもかもを与えらえて育った男と言えるだろう。あの年まで、自分から、喉から手が出るまで欲しいものが見つからなかった男。そんな男が、アオにあれこれ与えたがって拒否される姿は滑稽であった。

 その内飽きるに違いない。さくらの焦燥は大袈裟だと思っていた時期もあったのだが、小学校、高学年くらいだろうか。そろそろ、男女で好きだの嫌いだの、そういう話が盛り上がり始める頃だろうかと、軽い気持ちで聞いてみた。

 アオとボクシングの試合を観に行った帰り、洋食店だった。アオははじめて飲むというクリームソーダと格闘していた。


「お前くらいの年になると、気になる男ができたりすんのか」

「青色の方、強かった」

「違えよ。好きなやついねえのか。同級生とかで」

「ああ」


 思えばその目は、父親と母親の死体を見ていた時と同じ目だった。一瞬、とんでもなく冷めた目をしてそれから答えた。


「私は、恋愛しないから」


 きっと、その頃から必死だった。善助や、なによりさくらを心配させまいとしていたのだ。

 ずっと我慢していたのだろう。これの感情は駄目だ、持っていてはいけない。その理由を考えた時、父親と母親が思い浮かんだはずだ。『ああ』なってしまうから駄目だ。さくらも心配しているから駄目だ。一人で楽しそうならきっと心配されないだろう。立派な人間であれば心配されないだろう。アオはずっと、さくらや、善助を中心に考えて生きていた。心配しないでほしい。大丈夫だから。大丈夫。『ああ』はならない。がんばるから。そうやって、自分の感情と戦ってきたのだろう。伴雷が好きだという、感情をひた隠しにして。

 そんなアオに、追い打ちをかけるばかりの身内と、手を差し伸べる好きな男とを天秤にかけて、好きな男の手を取らずにいられる女が果たしてどれほどいるだろうか。

 アオを殴った右拳がじりじりと痛む。怪我はない。それでも痛んだ。善助は手を撫でると、ふ、と笑う。「頼んでいない」確かに、頼まれていない。そしてそのセリフは聞き覚えがあった。自分も確か、自分の親に言ったことがある。


「いつの間に喧嘩できる仲になってたかね、俺たちは」


 雨が降り出していた、この時期にしては気温も低くて、肌寒い。

 軽食を差し入れる為さくらの家へ行こうと思う。事前に電話くらいはしておくべきだとスマホを操作する。さくらへ電話をかける。一度目はそのまま留守番電話の音声ガイダンスに切り替わった。二度目、三度目もさくらに繋がらない。

 善助は店を飛び出した。

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