第35話
伴雷はちらりと隣を歩くアオを見る。アオは伴雷のカーディガンの袖を持って緊張した顔で歩いていた。
――でも、やっぱ寂しいかな。
明日からは、もうあの部屋にアオがいることはなくなってしまうし、やはりアオから頻繁に会いに来ることはないだろう。それはいいのだが、毎日食べていたアオの料理が食べられなくなることや、毎朝「おはよう」と挨拶できなくなってしまうのが、うっかりすると涙が出そうなくらいに寂しい。アオのこの選択は予測していたが、もっと一緒にいてもいいのに、と思う。
アオの足を引っ張るようなことはしてはいけない。アオが行きたいと思う方向へ。推進力になることはあったとしても、向かい風になることだけはないように。アオが前を向くのなら、自分も同じ方向を見る。アオが迷子になるのなら、少し前で待っているか、迎えに行けるような。そういう人間でなければ、自分はいずれ、アオの傍に立つ自分を許せなくなるだろう。彼女に恥じない男でありたいと、毎日考える。
アオと、さくらの家の前まで来ると、アオは数分立ち尽くし、迷った挙句にインターホンを押した。自分の家だが、アオは今なにも持っていない。鍵もなければスマホもない。舞が持って来た荷物を肩から提げて、中からさくらが出て来るのを待った。
――退院してるはず。
アオを探し回って衰弱していたことも、無理がたたって入院したということも知っていた。まさか死ぬことはないだろうが楽観できないとは思っていた。もし、アオが戻ることを決心したとしても、戻る場所がなければまた途方に暮れることになってしまう。折角、自分のことを許してやれそうでも、やはりこの選択をしては駄目なのだと思い込まれたら困る。
家から出てきたさくらの顔色は悪かった。
見るからに疲れていて、肌の色も青白い。
しかし、目の前にいるのがアオだとわかるとさっと生気が戻る。
「アオ……!」
さくらはアオに駆け寄った。アオはじっとさくらの走って来るのを見て、黙って抱きしめられていた。
どうだ、と。伴雷は思いっきりドヤ顔でいたかったが、流石にそういう雰囲気ではない。
「ただいま」
アオが言う。さくらはアオを強く抱きしめて震えていた。
「一か月も、何の連絡も寄越さないで」
「うん、ごめんなさい」
さくらの声はかすれている。アオはさくらの背に手を添えて、軽く擦った。しばらくすると、さくらは改めてアオの前に立つ。伴雷を一瞥するが、まずはアオと話がしたいらしい。しかし、さくらもなにから話をするべきか悩んでいるようだ。先に口を開いたのはアオだった。
「ごめん、私は伴雷くんが好きだ」
咄嗟に胸を押さえるだけに留める。アオが胸を張って続ける。
「おばあちゃんが不安に思うこともわかるし、私も怖いけどたぶん、――不安を拭うことは一生できない」
一つ解消したとしても次がある。その次もなんとかしたとして、別の問題が起きることもあるだろう。伴雷を避けたとしても、その先で誰の事も好きにならないとは限らない。逃げ続けることも作戦の一つだとは思うが、アオはそれは選ばなかった。
「まずはここからはじまると思う」
深く息を吸い込んで宣言する。
「私は、お父さんとお母さんみたいな死に方はしない」
「絶対に」と付け足した。「絶対にああはならない」さくらの瞳から涙がこぼれる。アオはさくらを真っすぐに見る。
「何が起きても、ちゃんと生きていく。なかったことにはできない」
海原アオは海原アオだ。父と母の影響もあるだろうが、それだけではない。さくらが与えた要素や、善助が報いた行動、舞とかき集めた経験、善助の存在。それら全てがアオを形作っていた。その上に立つアオが見ているのは、いつだって、よりよい未来についてだった。
さくらは伴雷を見上げる。
「……アオを泣かせるようなことがあれば、許しません」
それだけ言うと、さくらは先に家に入って行った。アオは肩から力を抜いて、それからすぐに息を吸いながら再び背筋を伸ばした。キスをしたあとと同じ顔で笑っている。伴雷は一人でどきりとするのだが、アオは安堵したり決意を固め直したりで忙しそうで、あんまりそういうことは考えていなそうだった。
「ありがとう、送ってくれて」
「いやいや。こちらこそ、見守らせてもらって」
アオも家に帰って行くので、手を振って別れた。
踵を返すと、真後ろに善助が立っていて「うわびっくりしたあ!?」思わず大きい声が出た。善助の目の下には隈ができている。必死で探していたことは知っていた。舞の動向を監視し始めたあたりで、舞には来ないようにと言っておいたので、居場所が割れることはなかったが。
善助は伴雷を睨み付けながら言った。
「お前には、こうなるってわかってたのか」
「ホント言えば、どっちでもよかった、かな」
「てめえこの野郎」
どっちでもよかった、というのは本音だが、アオが父と母と同じような未来を選ぶことはないと確信していた。アオは年齢の割によく自分をコントロールしているし、性格は前向きで、出自に関すること以外はポジティブだった。彼女の行動を見ていればわかることだ。
――それはそれとして。
「大丈夫。どっちを選んでもアオさんが一人になることだけは、絶対になかったし」
善助ならばいいかと、あの二人には絶対に言えない言葉を言い放って、得意気に顔を作った。一発殴られるかとも思ったが、善助は大きく溜息を吐いて頭を抱える。
「……娘を婿にやる父親ってのは、こんな気分かね」
「ハハハ!」
笑うと頭を叩かれた。加減されているのだろうが、アオに頬を抓られた時の数十倍は痛むし鋭い打撃である。アオはきっと、さくらともう少し話をしたら、さくらを伴って善助の喫茶店にも向かうだろう。
「アオさんのことも、こんくらいで許してあげてね。――じゃねーとお前の店の評判地獄に落としてやるからな」
「言っておくけどな。俺もさくらさんもお前を認めてやったわけじゃねえからな」
「ハハ、俺とアオさんは最強のコンビだからさ、そう簡単には突き崩せねえよ? 一週間でレートの王者に上り詰めた実力を見せてやっから」
「何の話してんだ」
もちろんゲームの話だ。詳細は教えてやらない。「おい」「コラてめえ伴雷」声を無視しして駅へ向かった。真面目に仕事をするとしよう。
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