第6話
アオは善助から軽食を受け取ると、伴雷と二人で帰路についた。
伴雷は傘を回しながら隣を歩いている。アオに歩調を合わせてアオを気にしていた。
「今日は暇そうだったネ」
「うん。雨の日はあんまりお客さん来ないから」
閉店の一時間前で一人も客がいないと早めに閉めることもある。伴雷がいたので今日は閉店時間まで店を開けていた。善助は伴雷を危ない男だと言うが、客として扱ってもいる。
思い出すのは、善助の悲しそうな顔だ。善助は昔から、アオ以上にアオのことを心配している。それはわかっているが。アオにはどうすることもできなかった。善助が望むことは、アオにとってあまりにも難しいことだ。
「あー、その、アオさん。怒ってる?」
伴雷に問われてきょとんと顔を上げる。
「なんで?」
「店長になんか言われたとか」
言われていない、とは言わないが、怒ってはいない。アオは首を振る。何も言われていない。ただ、申し訳ないと思っていた。
「あの人はいつも私を心配してくれてるから、それが」
「それが、鬱陶しかった?」
「そんな風には思ってない」
心配させるのが申し訳ない。本当は、ただ安心して見守っておいて貰えたらいいのだけれど。
「思ってないよ」
「うん」
詳しく話をすると泣きだしてしまいそうだったので、否定だけを繰り返した。伴雷はそれ以上、善助となにがあったか、どういうやりとりがあったのか聞くことはない。きっとこういうところが、いろんな人にウケるのだ。声が心地よく、心を直接撫でられているような気持ちになる。
意識して深く呼吸をすると「よし」伴雷がアオの正面に回って両手を広げた。
「今から俺と夜遊びすんのはどう?」
――たぶん、合田伴雷は相手がアオでなければここまで提案することはない。まして、頼んでもいないのに付き合ってくれることはない。請われればその通りにすることもあるだろうけれど。ニッ、と笑みを深めて続ける。
「ゲーセンでもカラオケでも、これから遠くに行くんでもいいし。もしリクエストがあればそれでも。――どう?」
目の前に、伴雷の手のひらが差し出される。
金色のブレスレットがじゃらりと音を立てた。人差し指と小指にはまっている指輪は冷たいだろうか。温かいだろうか。自分よりも細く長い指がこちらに向けられている。伴雷を見上げた。
「もちろん俺の奢りです」
パチ、とウインクまでしたくせに、じっと見つめていると徐々に目が泳ぎ始める。自分のやったことが恥ずかしい、というよりは、アオを直視し続けるのが難しい、という感じだ。挙句の果てには「はずかしーからそんなに真っすぐ見ないで」と言い出した。それでも、伴雷からアオに伸ばした手を引っ込めることはしない。
アオは、右手は鞄のヒモと、左手は制服のスカートを強く握って首を振った。
「――ううん」
いらない、と伝える。
「そっか。なら、早く帰って飯食って、お風呂入って寝るのがいいネ」
伴雷はそのまま前を向き、アオの数歩先を歩く。
アオはゆっくりと握り込んだ手を解いて、伴雷が見ていないのを確認してから自分の右掌を見つめる。彼の、袖の広いカーディガンが揺れている。その端くらいなら掴んでもバレないだろうか。ひらひらと動く袖を見つめて、手を伸ばす。
指先が袖に触れる瞬間。
「――アオ」
掠れているが、凛とした響きを持った声だった。「う」と声を出したのは伴雷だ。伴雷とアオは二人で振り返る。
「おばあちゃん」
祖母、海原さくらは今日、二つ隣の町の道場に薙刀を教えに行っていた。いつもはここまで帰りが遅くなることはないが、最近は夜に教室を開くことも検討されているらしいから、今後のことはわからない。さくらは紺色の袴姿で、自作した桃色のケースに練習用の薙刀を入れて背負っていた。しっかりとした足取りでアオに近付くと、アオを自分の方へと引き寄せる。
さくらは、伴雷を見上げてニコリと笑う。
「送って下さってありがとう。もう大丈夫ですから」
近寄るな、と暗に言われている。伴雷は「ハハ」と笑顔を引きつらせた。
「いやいや、本当は、俺なんかいなくても大抵のことは大丈夫って知ってるんすけどね」
「あら。それならそう熱心にアオを見て下さらなくても結構ですよ」
アオは伴雷をちらりと見る。伴雷は「ハハハ」と笑うしかないようだ。祖母が疑うようなことはなにもされていない。どちらかと言えば助かった。佐伯が困っていた時、アオ一人では佐伯に傘を貸せなかっただろうから。けれど。それを言ったところで事態が好転するとは思えない。
「アオ。帰りましょう」
さくらが伴雷から視線を外すと、伴雷はすぐにアオを見た。どうか伝わっていればいい。ごめん、と口元だけで言う。伴雷も同じように「いいよ」と言ってくれた。アオはひとまずほっとしてさくらに続く。
以降、さくらは何も言わずに歩き続けている。ちらりとさくらの様子を伺うと、苦い顔で真正面を睨み付けていた。さくらはわかりやすく、伴雷を嫌っている。そしてそれを伴雷もよくわかっているので、あまり遭遇しないようにしてくれている。
話題にあがるだけで不機嫌になるので、アオもあまりさくらの前で伴雷の話はしない。
「アオ、傘を忘れていきましたね」
「うん、ごめんなさい」
「それは構いません。けれど、あの人を頼るのはやめなさい。傘なんて、学校で借りるなり友達に借りるなりどうとでもなったでしょう?」
白髪を後ろで一つに束ねている。祖母の揺れる髪を見ながら祖母の話を聞く。どうとでもなった。それはその通りだ。返事ができないでいると、焦れたように祖母がこちらを振り返る。
「アオ、あんまりうるさく言うつもりはないですけどね」
「わかってる」
言いたいことはわかっている。善助が言いたいことも、さくらが言いたいこともわかっている。
「アオ」
「わかってるよ」
二人ともが心配してくれているとわかっていた。二人とも最悪の未来を回避しようとしているだけだ。周囲も巻き込んで不幸にする、そんな人間にならないように気を付けてくれているだけなのだ。
――私が、私の両親と同じようにならないように、心配してくれている。
「大丈夫」
大丈夫だよ。アオがそればかり繰り返すので、さくらも、善助と同じ顔をしていた。
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