第5話

アオは二十二時にあがりである。店の閉店時間も二十二時だ。

 流石に閉店間近になると客は少なく、最後まで残るのは大抵アオを出待ちする伴雷くらいである。


「閉店だぞコラ」

「気にしなくていいよ」

「帰れボケ」


 雨は止んでいる。もう伴雷がアオを送っていく必要はない。


「アオさんが帰れっていうなら帰るけど」


 アオがそこまで言うことはない。ただ単純に面倒くさいというのもあるだろうが、最近は特に放置気味だ。小学生の時や中学の時にはもう少しこの男を警戒していた。二人きりにならないようにしたり、必要以上に頼らないようにしたり。それが今日は相合傘でここまで来た。


「お前、なんでアオが今日、傘持ってってねえってわかったんだ」

「そこまでわかってたわけじゃない。俺が聞いてたのは『アオさんは傘を持って登校してなかった』って話だけ。もしかしたら鞄の中に折り畳み傘があったかもしれなかった」


 アオに関することで、この男に感知できないことはないのかもしれない。アオはそれを恐ろしいとは思わないのだろうか。アオに関する情報を、この男が買い集めることを気持ち悪いとは思わないのか。

 伴雷を追い返すことは諦めて、トイレ掃除をしているアオのところへ行く。

 アオはトイレの床をデッキブラシで磨いて、今、水を排水溝へ誘導しているところであった。もう終わりそうだ。


「アオ」

「店長、今日ってこの後」

「今は善助でいい」


 水切りを体の横に立てて持って、善助を見上げる。話したいことがあるとわかったのだろう。善助が話しはじめるのをただ待っていた。


「今日、なんであいつとここに来た?」

「傘がなかったから」

「帰りはどうすんだ」

「傘はいらないけど、家まで着いてくるんじゃないかな」

「お前、それでいいのか」


 合田伴雷の好きにさせていていいのか。今の受け答えにはアオの意思は一つもなかった。傘を忘れたといううっかりがあっただけだ。そこを的確に狙われて、バイト先に居座られていることについて思うことはないのか。アオは善助を真っすぐに見て、善助の予想通りの返事をした。


「いいよ」


 その内、なにもかも許してしまうのではないだろうか。善助は拳を握って、そしてゆっくりと手を開く。アオは冷静だ。大人の自分が熱くなるわけにはいかない。


「悪いことは言わねえから、あいつはやめとけ」


 アオは少し考え込んで、それから首を振った。


「伴雷くんとは別に、なんともなってないよ」

「そうは見えねえよ」

「伴雷くんが、よく遊びに来るだけで」

「放っておくお前もお前だ。あいつが最終的に何を要求したいかわからない年じゃねえだろ」


 店で流している音楽が微かに聞こえてくる。ピアノの高音がぱらぱらとメロディをなぞって、アオが無言でいる時間を埋めた。アオは善助から目を逸らさない。善助の言葉を受け止めて、何を言うべきか考えている。――子供の時から印象的な目をしていた。ややつり上がった目はくっきりと睫毛に縁取られて、見ている先がはっきりわかる。今、アオは善助を見上げている。諭そうとしているのは自分なのに、自分が諭されているような気持ちになる。なにがあってもこの眼を揺るがすことはできない、そんな気がする。そのせいで、勝手に追い詰められて、強い言葉になってしまう。


「付き合うなら、もっとちゃんとしたやつにしとけ」

「ちゃんと」

「同級生の、もっとなんてことないやつとか、いるだろ」


 金には困っていないし人望もあるらしいが、定職にもついていないような男ではなくて。たった一人に執着して追いかけ回すような男ではなくて。男でも女でも、アオが心を向けた相手全てを羨ましがるような男ではなくて。何の迷いもなく学校の前で待ち伏せするような男ではなくて。十五歳も年上の男ではなくて。


「――大丈夫」


 アオは笑った。


「私は恋愛、一生、しないから」


 この話をすると、アオは必ずそう言った。善助は大きくため息をつく。


「いや、俺はそういう極端なことを言ったわけじゃねえよ」

「わかるけど」


 アオは、善助が望んでいることをわかっている、と言う。善助はまたやってしまったと思う。アオが緩く微笑む。アオが善助の望んでいることがわかるように、善助にもアオの考えていることがわかる。


「私は、五歳の子供を捨てた人間の娘だから」


 そうじゃないと叫びたかったが、アオがあまりにも真っすぐこちらを見ているものだから、感情に任せて押さえつけることができない。


「ちゃんとした恋愛なんてするべきじゃない」


 言葉より先に身体が動いた。両肩を掴むが、構わずにアオは続けた。


「特別好きな人なんて、作らない」


 先に目を逸らしたのは善助だった。項垂れて、アオを微かに揺らす。


「そうじゃねえよ」

「うん」

「そうじゃねえ」

「うん、わかってる」


 追いつめるようなことを言ってしまった。謝らなければならない。完全に立場が逆転している。いつもこうなってしまって、アオとまともに話ができた気がしない。


「わかってねえ、お前は」

「仕事に戻りましょう、店長。高校生は、二十二時までしか働かせちゃいけないんですよ」


 他の高校生を知らないが、時々遊びに来るアオの友達や、幼馴染の舞はここまで踏み込まれたらもっと怒るとか、別の感情を見せるのに。善助はこれ以上追求するのはやめた。


「さくらさんにもあんま、心配かけんなよ」

「はい」


 アオは頷くと、姿勢よく真っ直ぐ歩いて見ながらトイレから出て行った。

 鏡には、今にも泣き出しそうなスキンヘッドの男の顔がうつっている。


「ハッ」


 笑うしかなくて、少し笑った。だっせえ。

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