第7話

海原アオが両親に捨てられたのは、五歳の夏のことである。

 クーラーも扇風機もかかっていない室内で一人、アオは目を覚ました。

 住んでいた古いアパートの一室に置き去りにされたのだ。部屋にはアオ一人しかおらず、両親の姿は忽然と消えていた。まるで最初からいなかったみたいに。アオはどうしたらよいかわからずぼうっと部屋の中で過ごしていた。冷蔵庫には何も入っていないし、お菓子の類も見つからない。外に出て、ふらふらと歩いているところを警察に保護され、その後、父方の祖母、海原さくらが迎えに来た。

 さくらは、家の敷地内にある、広い道場の真ん中でアオに言った。


「今日から、ここで二人で暮らしましょうね」


 祖母の家に来るのははじめてだった。祖母が食べ物を持って家を訪ねて来ることはあったけれど、逆は記憶にない。


「お父さんとお母さんは?」


 言いながら、聞くべきではなかったかもしれない、と思った。さくらはぎゅっと顔の中心に力を入れてアオを見た。怒られるのだろうか、と当時のアオを思ったが、今であれば、あれは、涙を堪えた顔なのだとわかる。さくらはアオを抱き締めた。


「ごめんなさい。私も、わからないわ」


 そうか。と、思った。他にもいくつか質問をしたかもしれない。「いつ帰って来る?」とかそういう質問だったはずだ。詳しくは覚えていない。何を聞いても祖母は「わからない」としか答えなかった。答えられなかったのだろう。

 しばらくは祖母と毎日一緒に過ごした。道場は家代々のものであったそうだが、祖父が亡くなると同時に看板を下ろしたそうだ。それでも、祖母は指導者として請われ、学校であったり、町の道場やイベントなどに出かけていくことが多かった。それらすべてに祖母はアオを連れて行き、アオは一緒になって薙刀や、同じ流派の剣術を教わったり、合気道なんかを教わる機会もあった。そうでなくとも関係者に遊んでもらったりして、退屈をした記憶がない。嫌な顔をされたこともない。

 けれど、小学校へ通い出すと楽しいことばかりとはいかなかった。


「捨てられたんだろ」


 教室、たしか、図工室だった。みんなで絵を描いている時、突如としてそう言われた。名前は忘れたが、男の子だ。

 机の上には、両親の絵の描かれた画用紙。アオが描いたものだ。


「嘘じゃん」


 どう反応するべきか迷って、手元の絵を見る。先生が指示したのは『お父さんとお母さん』だ。アオが描いたものも間違いなくお父さんとお母さんである。顔を上げてはっきりと否定した。


「嘘じゃない」

「子供捨てたのに、そんなに笑ってるわけないじゃん」


 この時、周りのクラスメイトがどうしていのか、先生がどうしていたのかは覚えていない。アオはもう一度自分の絵を見る。そして思い出す。浮かんで来る父と母の姿はやはり、この絵の通りだ。アオは二人が喧嘩をしているところを見たことがない。いつでも、二人でいれば幸せそうにしていた。


「間違ってない。お父さんとお母さんは私を置いてったけど、喧嘩はしたことなかった」


 今もきっとしていないだろう。お互いに怒鳴り合う姿が想像できなかった。


「そんなのおかしい!」


 男の子はアオの画用紙を取り上げるとぐちゃぐちゃにした。ここでようやく異変に気付いて視線が集まる。なにか、彼には彼で自分に対してああしなければならない理由があったのだろう。両親が自分を置いて行ったのと同じように。わからないけど、きっと理由はあるのだろう。

 以降度々「捨てられた子供」と言われることもあって、不愉快ではあったけれど無視をしていた。どれだけむしゃくしゃしたとしても、道場で倒れそうになるまで薙刀を振っているといくらかすっきりすると知っていた。一度、うっかり殴ってしまったことがあったが、祖母と二人で謝りに行って、以降はクラスメイトを殴ることはなかった。

 友達がいなかったわけでもない。

 舞とは仲良くできていたし、それなりに楽しく日々を送っていた。

 そんな日常に突然入り込んで来たのが、合田伴雷だ。当時は、二十二歳だったはず。学校の前に人だかりができていた。小学生相手なのでしゃがんで、ただ話をしていた。それが、アオを見つけると立ち上がって歩いて来て。


「――お父さんとお母さん、見つけてあげようか」


 と、言った。

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