第22話
目が腫れるとはこういうことか、とアオは自分の顔を見ながら思った。泣き続けたらどうにか動けるようになったので、考えないようにしながら学校へ行く支度をする。今日はバイトもある。
昨日は結局、さくらと顔を合わせないままだった。リビングに行くと、さくらはアオの顔を見るなりぎょっとしたが、理由は聞かれなかった。
「今日は休んだらどうかしら」
「なんで?」
「なにかあったでしょう」
「なにもないよ」
聞かれたら、泣ける映画を観たと答えようと思ったが、このウソの出番はなかった。アオは朝食を取り、伴雷のことを考えそうになったら、舞の誕生日プレゼントについて考えることにしていた。毎年とても迷うので、しばらくはこれで自分を誤魔化していこうと思う。
弁当を鞄に入れ、玄関でローファーを履く。
「アオ」
「ん?」
さくらは心配そうにアオの肩に触れた。
「真っすぐ、帰ってきなさいね」
「いつもそうしてるよ。バイトがなければ」
「甘い言葉で寄って来る男についていかないように」
確かにあれは甘い言葉だ。けれど。
「……そんなこと、今まで一度もないよ」
結局今回だって、アオはついていかなかったのだから。さくらはそれでも心配そうに、アオを見送った。
学校へ行くと、舞に散々言われ「眼鏡くらいかけてこい」と怒られた。実際、隠しもしないものだから、アオの顔を知っているクラスメイトは軒並みぎょっとしていて、申し訳ないなと思う。
流石に写真は撮られなかった。
夕方にはいくらか腫れも収まって、バイト先では「今日なんか顔違うか?」と言われる程度であった。すっかり慣れた仕事をこなして、本当は何度か泣きそうになったが、どうにか耐えて閉店時間まで持ちこたえた。――ほら、なんとかなる。
トイレ掃除をして、最後にゴミをまとめた時、善助にカウンターの裏に呼ばれる。
「お前、明日は来るな」
元々、そんなに毎日アルバイトに来なくてもいい、と言われていた。学生は学業が優先だから、という話だった。アオは慌てて言い返す。
「成績落ちなきゃやってもいい約束、」
「そうじゃねえよ」
やはり、泣いていたのはバレていたらしい。善助は大きく溜息をついてアオを見下ろす。
「合田となんかあっただろ」
「ない」
「その速度で否定してなにもなかったはねえよ」
まただ、と思う。言われることは同じなので、事前に身構える。
「なに言われた?」
「なにも言われてないよ。あの人はいつも、なんにも言わない」
「何度でも言うけどな。あいつはやめとけ」
「わかってるって」
「わかってねえよ」
わかっている。昨日泣いていたせいでいつものやりとりで泣きそうになる。ぐっと堪えて善助を見上げる。善助は容赦なく続ける。
「あいつは間違いなく、お前を追いつめてる」
「別に追いつめられてない」
「あいつがいなきゃ、お前はもっと気を抜いて生きてられんだよ」
気を抜いて生きるとはなんだろうか。アオにはわからない。気を張っているように見えるなら、今はそっとしておいてもらいたい。
「わかってるって言ってる」
「まだ言うか」
「善助くんは、私がなにをしたら満足なの」
「そりゃあ」
伴雷がいなければとか、伴雷はやめておけとか。現実的ではないことばかりだ。もう出会ってしまっている。何年も付き合いがあって、それは善助も知っているはず。今聞きたいのはそんな話ではない。どうしたらいいのか聞きたい。自分はどうしたら、善助の言う気の抜いた生き方ができるのだろうか。
善助は頭を掻いて息を吐くと、真剣なまなざしで言う。
「――俺は、お前に命を助けられてる」
それは、伴雷がアオに会いに来るようになる、少し前の話だ。見て見ぬふりができなくて飛び込んだ。幸い手元に武器もあった。
「こうやって堅気として生きていけてんのは、お前と、さくらさんのおかげだ」
それは、善助がそう生きようと頑張ったからだ。店も繁盛しているし、評判もいい。間違いなく、善助の努力の結果である。
「お前のことは家族みたいに思ってる。妹にしちゃ年が離れてるけどな。とにかく大事だ。だから心配かけんな。頼むから」
心配をかけているのはわかっている。手に力が入る。わかっていて、できることをやっている。こんなことになるとは思わなかった。気付いた時には、もう時間が経ちすぎていた。それでもなんとかなればいいと、今日だってここへ来て、仕事はこなしたはずだった。
「私はこうやって、考えないようにしてる」
「あ?」
「余計なモノが入って来ないように、暇な時間を作らないようにしてる」
存在そのものを心の底からありがたがってくれる、一人の男のことを考えないようにしている。
「誰かの特別にならないように、広く、都合がいいだけの存在であろうとしてる」
うっかり頼ってしまわないように、強くあろうと自分に言い聞かせている。体も鍛えるし、学校の勉強もしている。
「もし有難く思っても、すぐに忘れて貰えるようにしてる」
広く、広く広く人間を見て、誰かの為に動いていれば、あんなに独善的になることはないはずだ。
「これ以上、どうしたらいいか教えて欲しい」
心配かけないためにやるべきことは他にあるか。他に一体どうしたら――。
「あいつはな。お前が真正面から近寄るなって言えば、近寄って来ねえよ」
正論だった。
「お前があいつと縁切ってくれりゃ、ひとまずは安心できる」
善助の言葉はこの上なく正しい。アオ自身も、それが一番いいと思っている。二人を安心させるにはそれに尽きると、わかっていた。
「だから、わかってるって」
「じゃあ聞くな」
店には微かにクラシックの音楽がかかっている。コーヒーのにおいと、フライヤーの油のにおいがする。なにもかも無駄であるように思えて、また涙が出る。
「だから何度も、俺も、さくらさんも言っただろ。やめとけって」
確かに言われた。アオは胃のあたりを押さえる。なにか。別のなにかが湧き上がる。ぐらぐらと燃える、これ以上はめてほしい、と思うのだが、善助は構わず言い放った。
「そうなっちまったら、苦しむのはお前だ」
――感情が、逆転する。
「頼んでない」
アオは体から力を抜いていく。薙刀を構える時と同じだ。必要な箇所にしか力を入れない。どのようにも動けるように準備をする。相手を見据えて、フラットに構える。頭の三角巾を外して床に放り投げた。
「なんだと?」
「心配してほしいなんて、頼んでないって言った」
心配するだけは気楽でいいな、とアオの思考は暴力的な方向へ振れていく。アオにつられて、善助も頭に血がのぼる。どん、とカウンターを叩いてアオに迫る。
「お前な!」
胸ぐらを掴まれそうになった。アオは善助の手を横から弾いて数歩下がる。
「今、こんなにむしゃくしゃするのは間違いなく善助くんのせいだけど、なに? なんか、楽しい? 女子高生を泣かせて」
優しくしろとは言っていない。放っておいてほしいと思っているのがわからなかったのか。そうまでして、思い通りに生きてほしいのか。なら、もっとやりようはなかったか。例えば、あの父母のように、アオを家に閉じ込めておけばよかったのではないのか。善助は顔を赤くして怒っている。声がどんどん大きくなっていく。吠えるように叫ぶ。
「楽しいわきゃねえだろうがボケ! 人の言うこと聞かずに勝手に苦しんでるのはお前だろ!」
「勝手に苦しんでる相手に追い打ちかけるなって話をしてるんだよ」
「一丁前に一人で生きてるつもりかクソガキ!」
「そっちは普通の大人のつもりか元ヤクザ」
「ッいい加減にしろよこの野郎!」
善助は拳を振りかぶる。今度は避けなかった。ただし、まともに喰らうのもまずいかと、顔を逸らせて威力を軽減させた。それでも、床に転がって椅子にぶつかる。
殴った瞬間、明らかに善助の様子が変わった。
しまった、という顔をして、アオを見下ろす。アオはと言えば、身体に払ったホコリを払って、エプロンを脱ぎ、落とした三角巾を拾い上げる。左側の口の端が少し切れている。
「……わざと殴らせただろ」
「帰ります」
善助はもうなにも言わなかった。横を通り過ぎて、上で着替えて、また降りてくる。立ち尽くす善助は小さく見えた。
「お疲れ様でした」
善助からの返事はなかった。
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