第17話

最悪を煮詰めたような、湿気と暑さを感じる古いアパート。幸せそうに微笑みながら死んでいる父と母。それは海原アオを作ったものだ。

 父と母のアパートから帰ったあの日から、警察の聴取だとか、葬式だとか様々あってそれなりに忙しくしていた。全て終わったあとは祖母が気を使って、一週間ほど休むように言った。やることもなく、部屋で寝ているか、道場で薙刀を振っているかどちらかだった。祖母は何か言おうとしてやめる、ということを繰り返した。アオがあまりにもいつも通りなので、祖母もまた、いつも通りに、きっかり一週間後、アオを送り出す。

 舞は学校で待っていて、アオはまず舞に頭を下げた。


「ごめんね」

「いいわよ。別に」


 貸すと約束していた本を忘れた、その程度の軽い謝罪に対する答えのようだった。軽く許して貰えてしまって、帰る頃には舞とのやりとりもいつもの通りであった。窓から外を見ると、人だかりができている。


「あ、アオ。また来てるわよ」

「……うん」


 謝りにいくべきか悩んではいた。ただ、もう会うことはないかもしれないとも思えた。もしそうなら、それが一番良い気がして放置するという選択をした。それなのに、学校に復帰したその日に、伴雷は会いに来て、こちらに気付くと大きく手を振った。いつも通りだ。

 舞が数学のノートを持ってきて言う。


「アオ、この紙になんか描いて」

「なんかって?」

「適当に猫とか」

「猫?」


 言われた通りに猫らしき生きものを描く。耳が尖っていて、胴体は長い。髭としっぽをつけて、黒く塗る。「横にサイン」「サイン?」カイバラアオと書き添えると、舞は大きく頷いた。絵を描いたページを切り取って、門へと降りていく。

 舞は伴雷にその紙を突きつけると言った。


「これいくらいになる?」

「直筆のやつっすか。レアだね……」


 二人が喋っている、その後ろをついていく。会ったからには、投げたことや理不尽な言葉は謝る必要がある。どのタイミングで言ったものか考えているが、舞の話は終わらない。


「あと今日のハイライトだけど、アオ、校舎裏に呼び出されてた」

「えっ、喧嘩?」

「おしい。告白」

「おしくはなくない?」


 つい、ツッコミを入れてしまった。二人がアオに振り返り、真ん中に入れてくれる。伴雷はなにもなかったみたいに言う。


「え? 返事は? もしかしてオーケー?」

「オーケーしてない」


 アオも、思わずいつも通りに答えてしまった。


「恋愛って、よくわからないし」

「だ、だよねー! よかったよかった」


 ほんとうによかった、と安堵する伴雷を見て、舞は一人少しだけ前に行って「私今日は急ぐから」と走って行った。話しをするきっかけをくれた。アオは胸のあたりを押さえる。


「今日、告白される前に、伴雷くんと私は付き合ってるのか聞かれた」

「へえー!? それはまた! それはまたねえ!?」


 伴雷は顔を赤くして慌てていた。アオは必死に、いつも通り、と言い聞かせる。いつも、どうやって話をしていたか。一週間ぶりだからだろうか。うまく思い出せない。


「も、もしかして、俺が、その男になんかすると思って断っちゃったとか?」


 アオはきょとんと伴雷を見上げる。何故そんな話になるのかわからない。断ったのは、恋愛する気がないからだ。告白もそのように断った。


「大丈夫。アオさんが心の底からそうしたいっていうなら、俺は応援しちゃうからサ」


 やはり、思い出すのは父と母のことだ。自分のやりたいことについて、やってみたいことについて考えると、いつも思い出す。


「……どんなことでも?」

「どんなことでも」

「本当に、どんなことでも?」

「本当に、どんなことでも」


 伴雷は笑う。痛みを隠すような、少し苦みのある微笑みだ。


「でも、この前は、止めようとした」

「もうしないよ」


 止められて、悲しかったような、嬉しかったような。悔しかったような。今でもあの感情を表現することができない。止められるとは思っていなかった。あそこまで行っても引いてくれないとは思えなかった。一つわかることは、あの時自分は肯定されたがっていたということ。


「ごめんね。あれは、俺が悪かった。隠すべきじゃなかったんだと思う」


 アオは緩く首を振った。


「……怪我してない?」

「ないよ」

「ごめんね」


 ごめん、ともう一度言う。投げたことかもしれないし、何もかも拒否したことかもしれない。さくらや善助にももう一度謝ったほうが良いような気がしてきた。伴雷はアオの様子をじっと見ていたが、その内、恐る恐るという風に言った。


「なんか、仲直りできたっぽい、かな?」

「たぶん」


 アオが頷くと、伴雷は「はーーーー……!」と、思い切り息を吐き出して体から力を抜いた。


「俺、人生で誰かと仲直りしたの、はじめて」


 言われて、アオも考える。舞とも喧嘩をしたことがなかった。けれど、舞との仲直りが先だったので、アオにとってははじめての仲直りではない。改めて、もう一度頭を下げる。


「ごめんなさい。でも、行ってよかったと思う」

「そっか。そう思うなら、やっぱり俺は、投げられてよかった」


 投げて良かった、とは思えないが、そう言われるといくらか楽になる。頭をあげて伴雷を見上げると、機嫌が良さそうな伴雷と目が合った。背が高い。いつも外にいるからか、肌は少し焼けたような色をしている。サングラスの奥の瞳がきゅっと細まる。唐突に手を合わせて拝まれる。時々あったことだ。感情が溢れるらしい。伴雷は言う。


「ンーー、今日も存在してくれてありがとうございます」


 刹那、周囲の人の声や足音が消える。

 それは、と思う。


「大袈裟だよ」

「大袈裟じゃないんだ、これが」


 どうしたら、この人を好きにならずにいられるだろう?

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