第11話

庭の木に蟬がいるのだろう。けたたましく鳴いている。

 その音が、時々電話の音のように聞えて、海原さくらは大きく溜息を吐いた。

 孫であるアオが中学生になるとすぐに、アオの友人の舞が作った、セーラー服を着て薙刀を振る動画に大きな反響があった。アオの姿はさくらから見ても立派で、見る人に爽快感を与える良い動きができている。見えない暗雲を断ち切るような。なにが立ち塞がっても前に進む、躱して受けていなして、一歩を踏み出す。彼女の姿に希望を見る人がいるようだった。

 しかし、同時に、彼女の父、つまりはさくらの息子と、母、義理の娘からの電話がかかってくることが格段に増えた。小学校高学年の頃は数か月に一度かかってくる程度だったが、最近はほとんど毎日だ。あまりにもうるさいので今は電話線を抜いている。

 それ以外の人と連絡が取れないのは不便なので、先週、アオと一緒に携帯電話を買いに行った。

 アオは物分かりが良くて素直な子だ。

 教えたらなんでも自分のものにできるし、どんな言葉でもよく聞いている。あんな親だったのに。いいや、あんな親だったからこそなのかもしれない。アオの両親はアオにほとんどなにも与えて来なかった。だからこそアオはどんな言葉でもよく聞き、よく吸収するのだろう。与えられることに飢えていたから。

 五歳のアオを交番へ迎えに行った日、彼女は警官も驚くくらいにおとなしくしていた。馴染みの警察官から直接連絡があり事情を聞くと、急いで家を出た。

 アオはさくらを見ると「お父さんとお母さんは?」と聞いた。わからないと答えても泣きもせず、大人しく家までついてきた。同じ部屋で眠ろうとするとアオは不思議そうに「一緒に寝てもいいの」と首を傾げた。はじめは何故そんなことを聞かれたのかわからなかったが、一緒に暮らす内に息子とその嫁が如何に彼女に無関心であったのかわかってきた。さくらがアオとその両親の様子について一つ知る度に、さくらは「なんてこと」と悲嘆にくれた。その様子を見て、アオもまた自分のおかれていた状態がおかしかったと自覚していたようであった。

 息子夫婦が不安定であることは、はじめからわかっていたことだった。

 息子、海原いたるが結婚したいと連れて来た女は、いたるの親であるさくらに関心がないようだった。徹頭徹尾いたるに関係のある話しかまともには聞かず、話もしない。しかし、他ならぬ自分の息子が選んだのならと、目の前で幸せそうにする二人に圧倒される形で結婚を祝福した。

 子供が産まれた、その瞬間からやはりあれらは普通ではなかった。

 助産師が子供を取り上げ、親の腕に抱かせようとしたが、父親は母親の健闘をただ称え、母親は父親から称えられ誇らしげにしていた。子供、つまりアオは、助産師の腕の中で泣いていたらしい。その場に居合わせた医師も気味悪がり、その様子はよく覚えていると話しを聞いた。「心配してたけど、心配してたより大事にならなくてよかった」下手をしたら、もう生きていないんじゃないかと思った、とまで言われ、さくらは言い返すことができなかった。

 さくらは時々二人の家に行ったが、アオが健康そうなので大丈夫だと思い続けていた。子供が、アオが生きていられたのは、虐待の疑いがかかったり、死のうものなら大変だからだ。取り調べだの、裁判だので二人で過ごす時間がより少なくなってしまうと思ったからだろう。気付いて、きっとそうに違いないと認めた時には思い切り吐いた。

 道場で薙刀を振る姿がいたると重なる。

 食事をしている姿がいたると重なる。

 歩く姿がいたると重なる。

 顔は母親に似ているが、性格や所作は父親に似ていた。

 そして、はじめて伴雷がアオと一緒にいるのを見た時、いたるが嫁を連れて来た時と重なった。

 同種の予感と、不安感がさくらを襲う。

 動悸がして、気がつくとアオの傍に走っていた。アオを背に隠して「何か用事ですか」と睨み付けた。合田伴雷は「えっと俺は別に、ちょっとアオさんと仲良くなりたいなって思ってるだけで」などと笑う。――同じだ。あの時いたるが連れて来た女も、いたるにしか興味がなくて、他のことなんてどうでも良いようだった。この男と一緒にいさせたら、アオもいたるのようになってしまうかもしれない。それだけは。それだけは阻止しなければ。

 必ず、良くない方へ行ってしまう――。

 ――インターホンが鳴って、さくらはびくりと体を震わせた。

 いけない。また、別のことを考えてしまっていた。今考えるべきはアオの父親と母親のことだ。もしかして、電話が繋がらなくなったからとうとう直接やってきたのだろうか。

 恐る恐るモニターをオンにする。映ったのは、坊主頭でスーツの大男だった。彼、芥善助は、八年前にアオが突然連れて来て、以降、さくらやアオの世話を焼いてくれている。事情を詳しく聞いたことはないが、今は駅の近くで喫茶店をやっている。近所では評判の静かな店だ。

 玄関扉を開けて挨拶をする。


「こんにちは、善助くん。今日はお店はお休み?」

「はい、木曜が定休日で……。これよかったらアオと食べて下さい」

「まあ、ありがとう。いつも悪いわねえ」

「いやいやそんな! 俺は二人がいなきゃ今ごろ生きていませんので!」

「大袈裟ねえ」

「大袈裟なもんですか」


 見た目のとは違って実直な男だ。家にあげると、芥善助は「お邪魔します」と言いながら、玄関の靴をしっかりと揃えた。そうするべき、と習ったのだろう。教えを反芻するようなキッチリとした動きだ。型のようだとさくらは思う。


「座ってて。喫茶店のマスターにお茶を出すのは恥ずかしいけど」

「お気使いなく。俺みたいなもんには出がらしで充分ですから」

「そんなわけにはいきませんよ」


 善助はアオと知り合いになってから、男手がいるような作業を手伝ってくれたり、アオの様子を見ていてくれたり、病院や、スーパーに付き添ってくれることもある。今日も律儀に手土産を持ってきた。さくらの様子を見に来たのだろう。

 お茶を出して座布団に座る。お菓子は三色団子だ。善助は「いただきます」と手を合わせて「これうまいっすね」と人懐っこく笑った。


「アオが、私の様子を見るように頼みましたか?」

「えっ!?」

「そうでしょう?」


 アオはきっと、父と母からの電話だと気付ている。けれど、気付かないフリをしてくれている。その手前、自分ではなにがあったか話を聞くこともできないから、彼を寄越したのだろう。――そう、思ったが。


「いや、えーっと、実は」


 善助は申し訳なさそうに視線を下げる。その時点で、次の候補が思い浮かぶ。アオではないのなら。


「伴雷の野郎が、ですね」

「そうですか……」


 理由は知らないが、アオに付き纏うようになった男の名前だ。合田伴雷という、芥善助とは真逆のような男である。軽薄そうな見た目に話し方。定職につかず、しかしどうしてか、彼の元には人が集まる。知り合いに彼のことを聞いてみると、口を揃えて言うのである。「見た目ほど怖い人じゃない」と。それは、さくらが善助について聞かれる時にまず口にする言葉だった。


「何年も、アオの周りをうろちょろして」

「すみません」

「あなたが謝ることではありませんよ」

「俺もアオには、あいつにあんまり近付くなって言うんですが」

「……アオがその言いつけを破ったことはありませんよ」

「そうですね……」


 アオは近付いていない。アオから声をかけることはない。それでも伴雷はアオの傍へ寄って来るし、舞の話によると、アオになにか差し出したくて堪らないようだった。「返報性のルールだって」アオは今のところ全て断っているようだが、断り続けることも簡単なことではない。その内なにかしらを受け取るようになるだろうし、そうなってしまえば、じわじわ彼のペースに巻き込まれていくのだろう。

 なにより、アオは。


「何故、よりによってアオなのかしら」


 知人に聞いた「見た目ほど怖い人じゃない」ことはさくらもよくわかっている。アオに向ける感情は本物で、義理や酔狂で向けているわけではない。本気で、アオと一緒にいることが楽しくて、アオに関われることが嬉しくて堪らないと、そう思っている。――だからこそ問題だった。その感情は、アオが与えられてこなかったものだ。

 両親は、お互いのことしか見ていなかった。アオが五歳までかろうじて健康であったのは、もしかしたら奇跡なのかもしれなかった。もっと早くに捨てられていてもおかしくなかった。今となっては「子供がいればきっと変わる」なんて、楽観していた自分が信じられない。


「……今はそれより、アオの両親から連絡が入ってるんでしょう。あの、伴雷からの情報ですが」

「なんで知ってるんでしょうね」

「あいつは、俺はその、前の仕事でたまに会うこともあったんですが、情報屋としてはかなり信用のおける奴ですからね。ルートは色々持ってると思います。どんな相手とも対等に取引ができるくらいには、重宝がられてもいます」

「はあ」


 さくらは溜息をついて今は電源も入っていない電話をちらりと見る。


「返してほしいと、今から言う住所にあの子を寄越してほしいと繰り返すんです」

「虫のいい話ですね。きっちり身なり整えて謝りに来るくらいしろってんだ」


 自分のことのように舌打ちをする善助を見て、肩から力が抜けていく。善助のような男であればまだ、と思わずにはいられない。アオが一方的に善助を好きになったのであればまだ安心して見ていられたのに。一度口に出してしまって「いや、それならそれで心配だったと思いますよ」と笑われたことがある。


「最近、二人の声が痩せてきたような気がして」

「……病気とかですか」

「病気、なのかわからないけれど、十三歳はもう立派な大人だとか、助けて欲しいとか」

「助けて欲しい?」


 善助は迷いなく続けた。


「それは、心配ですね」


 さくらにとっても家族のことだ。息子とその嫁のことである。普通はもっと心配してしかるべきだが、孫を捨てて二人で消えた人でなしでもある。さくらから「心配だから」とは言えないし、ましてや。


「じゃあ、俺が行って見てきますよ。今日は暇してたし」


 見に行ってもらいたい、と言い出すこともできない。

 それら全てを汲んで、善助は言った。有難いが、その言葉は、伴雷に言われているようでもあった。もし、伴雷がここに来たとして、同じことを言うように思えた。伴雷は、善助であればそうするだろうとわかっていてここに来させたのだろう。そして善助であれば、気兼ねなく頼れると知っているのだ。


「……ごめんなさいね。本当に」

「いやいや、いいんですよ。また店の方にも友達連れて遊びに来て下さい」

「ええ」

「住所教えて貰えますか。早速行って来ます」


 気前よく笑ってみせて、善助はお茶を飲み干した。


「ありがとう。貴方がいてくれて助かっています」

「やめてくださいって」


 ずっと手帖に挟んでいた住所のメモを渡すと、善助はスマートフォンで場所を調べて出て行った。

 蟬の声が遠くなったから、どこかへ飛んでいったのかもしれない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る